BuzzWorthy(バズウォルティー)

一歩先を行くトレンド分析で、ポップカルチャーとトレンドに関するあらゆる情報を提供します。

秀吉の弟 影に輝く豊臣秀長の隠れた功績

豊臣秀長」という名前を耳にすることは少ないかもしれませんが、この人物は実は日本歴史の中で大変重要な役割を果たしていたんです。私たちがよく知る天下人、豊臣秀吉は、百姓の出身から天下を取った英雄として有名ですよね。しかし、秀吉の華々しいサクセスストーリーの影で、彼の背後には秀吉の弟である豊臣秀長がいたんです。
秀長は、初期豊臣家の経営を実質的に支える重要な役割を担っていました。大河ドラマにも登場することはあるものの、彼のキャラクターは特別強烈なものではないため、多くの人にはあまり知られていないのが実情です。今回の動画では、そんな地味ながらも非常に才能に溢れ、多くの障害にも立ち向かった豊臣秀長の魅力に迫ります。
豊臣秀長は、どうして秀吉の影に隠れがちなのでしょうか? 彼の才能はどのようにして豊臣家の成長に貢献したのでしょうか? また、彼が直面した障害とは何だったのでしょうか? これらの点を詳しく掘り下げながら、豊臣秀長という人物が持つ、隠れた魅力や功績に光を当てていきます。秀吉の光の中でひっそりと輝いていた豊臣秀長の物語を、一緒に深く探っていきましょう。

## 百姓から武士へ
豊臣秀長は天文9年1540年尾張国中村にて、織田家雑兵であった木下弥右衛門の未亡人だったナカと、織田家茶坊主だった竹阿弥との間に生まれました。
幼名は小竹といい、3つ違いの異父兄が日吉、後の豊臣秀吉です。
日吉は小竹がまだ幼いうちに家を出てしまい以後音信不通となっていました。
小竹は幼い頃から穏やかで人好きのする性格で、また大変聡明だったと伝わります。母と姉妹ともに農民として暮らしていた彼に転機が訪れたのは、永禄7年1564年頃のこと。
織田家の家臣だった浅野家の養女・おねと強引に結婚した、日吉こと木下藤吉郎秀吉が十数年ぶりに故郷に帰ってきたのです。
将来の家臣を持たない秀吉が久々に再会した弟、小竹に自分の家臣になってほしいと頼み込みました。
最初は気の進まなかった小竹も、生来人が良かったのでしょう、兄の頼みに応じてこれを承知し、木下小一郎と名を改めました。

##中国攻めで城持ちに
こうして秀吉の家臣になった小一郎でしたが、当初はもちろん右も左も分かりません。
戦においても戦闘に参加することは少なく、もっぱら留守居役を務めて藤吉郎を補佐していました。
しかしやがて天正元年1573年に秀吉が長浜城主になると、城代を務めるなど、重要な役職を任されるようになります。
この頃小一郎は「長秀」と名乗るようになり、翌天正2年には秀吉の名代として長島一向一揆の鎮圧に向かうなど武将としての頭角を現し始めました。
また天正3年1575年には羽柴小一郎長秀と名を改めています。
天正5年1577年、織田信長の命により、秀吉が中国攻めの総司令官となると、長秀は家臣となっていた藤堂高虎とともに同行し、秀吉は黒田孝高から譲渡された姫路城を拠点として、長秀とともに播磨・但馬を制圧していきました。
天空の城として有名な但馬竹田城も落城した後には、長秀が城主となっています。
以降も長秀は、別所長治の三木城、山名氏の有子山城、出石城、吉川氏の鳥取城を落とすにあたり、秀吉の右腕として活躍し、出石城落城後は城主として入城しています。
備中高松城の水攻めにも参陣していた長秀は、本能寺の変の一報を受けると秀吉に従って中国大返しを決行し、京に駆け戻りました。
明智討伐の山崎の戦いでは天王山に黒田孝高ともに布陣しています。
黒田孝高といえば、彼に宛てた秀吉の書状に「その方の儀は我ら弟小一郎め同然に心やすく存じ候」という一文があり、孝高はこれを読んで感激したという逸話があります。
長秀はたとえに引き合いに出されるほど、秀吉の信頼が厚かったこと、またその様子を孝高も目の当たりにしていたことが伺えますね。

##天下取りをサポート
清洲会議を経て天正11年(1583年)に柴田勝家を破ると、長秀は供出された姫路城を居城とし、播磨・但馬二国の統治を任されました。山名氏の開いた生野銀山も管理し、10万石の大名となりました。天正12年(1584年)には織田信雄徳川家康の連合軍との間で小牧・長久手の戦いが勃発。
秀吉・長秀兄弟の姉、ともの子、秀次が大将として家康の居城岡崎を攻めますが、情報が漏れて逆に奇襲を受けて大敗を喫しました。
秀吉は作戦を転換して、信雄の所領である伊勢国に戦力を集中させ、弱ったところに和議を持ちかけます。この時、交渉役を任されたのも長秀でした。兄秀吉の天下がほぼ確実となったこの頃、長秀は自身の名前である信長の「長」と秀吉の「秀」の上下を入れ替え、羽柴秀長と改名しています。

## 秀長と藤堂高虎
天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、秀次とともに主力部隊として行動し、秀吉は太田城に籠もる雑賀衆を殲滅すると、紀伊を秀長領として統治を任せました。
本願寺の影響力が強かったこの地を治めるにあたり、秀長は検地を実施します。
農民時代の経験を生かして正確な検地の方法を考案し、後の太閤検地へと繋げました。
また、秀長は居城として和歌山城を築城しましたが、この時普請奉行に任命したのが藤堂高虎でした。
藤堂高虎は主君を次々に変えて風見鶏などと呼ばれたりもしますが、部下の才能を見抜き評価した秀長にはよく仕え、忠義を尽くしました。
築城の名人といわれる高虎が土木技術を学んだのは、秀長家臣となった直後、安土城の築城に関わった時だったと言われています。秀吉、秀長兄弟も一説には土木系職能民の出身とも伝わるほど、土木技術に精通していたため、秀長は高虎の築城の才能を見抜き、彼の立身出世の足掛かりを作ったのでした。
高虎はこの恩義を忘れず、秀長の跡を継いだ秀保にも仕えています。

## 四国平定後、百万石に
同年6月の四国征伐では病に臥せってしまった秀吉の代わりに秀長が総大将として指揮を執ることに。
秀次や蜂須賀正勝黒田孝高らとともに讃岐・伊予・阿波を攻めました。
徹底抗戦の姿勢を見せる長宗我部元親でしたが、7月末には説得に応じてついに降伏長宗我部は四国統一を目前にしてその夢を破れ、土佐一国へと領土を縮小したのでした。この功績により秀長は新たに大和を与えられて百万石の大大名に昇進し、大和郡山城を拡大して入城しました。
以後、商業の発展や法整備などに力を入れ、寺社から領地を没収してその力を削ぐなど、アメとムチを使い分けて領内を統治しました。

##秀長病魔に倒れる

このように両国経営に辣腕を振るった秀長でしたが、長年にわたる激務のためか、この頃から体調を崩すことが多くなりました。
摂津有馬温泉に湯治に通いながらも、徳川家康の条約に尽力した秀長政の実質的な裁量のほとんどになっていた彼の働きぶりは、秀吉から「内々の儀は利休に、公儀のことは秀長に相談するように」と言われるほどでした。
天正15年1587年の九州攻めでは、日向から進出して島津義弘の夜襲を撃退、薩摩に撤退した島津軍は日向方面への対策だった秀長に講和を申し入れました。
こうして秀吉は日本の大半をほぼ平定し、まごうことなき天下人となったのです。
そんな兄の影に隠れ、病気を押して働き続けた秀長は、天正18年1590年正月頃に病状が悪化、面倒見の良かった叔父を案じた秀次は、大和の談山神社に病気平癒の祈願をしています。
天正19年1591年1月22日、秀長は居城である大和郡山城でついに息を引き取りました。
享年52歳、秀吉の天下取りを献身的に支え続けた人生でした。
場内には、兄の天下平定のための軍資金だったのでしょう、5万6000枚もの金子・部屋いっっぱいの銀子が残されていたといいます。
秀長の死後、豊臣家には不穏な空気が立ち込めました。
同年2月には利休切腹事件、8月には秀吉の嫡男鶴松が亡くなり、文禄元年1592年4月には文禄の役が始まり、秋には敗色が濃厚に。
文禄4年1595年4月には秀長の養子で秀次の弟・秀保が変死。
同年7月には秀次事件の発生、慶長2年1597年には慶長の役が始まり、兵が疲弊していく中、政権内の文治派と武断派の間で溝が深まり、三成の関ヶ原の戦いの布石になってしまいます。
そして慶長三年1598年8月18日、太閤秀吉が亡くなり、豊臣政権崩壊の足音がいよいよはっきりと聞こえてきたのです。

まとめ
豊臣秀長という人物は、日本の歴史において非常に興味深い存在です。
彼は、豊臣秀吉の弟であり、豊臣家における重要な役割を担っていました。
秀長は、強大な権力を持つ兄秀吉に意見を述べることができる、数少ない人物の一人でした。
彼は政治の手腕も戦闘指揮も一流で、控えめな性格ながらも物怖じせず、交渉においては温厚であったと言われています。
秀長には兄秀吉のようなカリスマ性はなかったかもしれませんが、彼には人々からの厚い信頼がありました。
特に、朝鮮出兵については秀長が反対を唱えていたことはよく知られています。また、彼が生きていれば、利休や秀次の粛清をとめることができたのではないかと考えられています。
「たられば」で語るのはナンセンスかもしれませんが、秀長がもし秀吉より長生きしていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
豊臣家の滅亡を避けることができたかもしれないのです。いずれにせよ、彼の死は日本の歴史における重要なターニングポイントだったと言えるでしょう。

youtu.be