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北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由

【3万5千 VS 22万】北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由

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北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由
本日は戦国時代の解説「小田原合戦:北条家はなぜ戦ったのか」というお話でございます。

はい、北条家は確かに関東の大名ですが、全国の大名を従えた天下人の秀吉相手に何で戦ったんだろうという風に思われることがあります。まあ、後世の我々はそう思うわけですよね。で、方丈記がこの秀吉との無謀な戦いを行ってしまったのは、小田原表情というね北条氏政って人が優柔不断でもなかなかどうしよう、どうしようとか言ってる間に滅ぼされちゃいましたみたいね。まあ、そういう説明がされたりとか理解がされることが多いんですけども、さすがにその戦国大名として武田信玄とか上杉謙信と戦ってきた人ですよ。北条氏政北条氏直親子はそんな情けない終わり方なわけがないということで、私は色々調べてみましたので、皆さんもこの小田原合戦について、この話を聞いてより詳しくなっていただけたらと思います。それでは行きましょう、小田原合戦の解説でございます。

まず、この小田原合戦が始まるきっかけになった部分というのをしっかり押さえておく必要があるのかなというふうに思いますので、この事前に起きた出来事ですね、解説していきます。まずですね、この北条家っていうのは、いったんは秀吉に従属していたんですよね。「秀吉の言うこと聞きます」という風に言っていたんですけども、その従属を決めた後にちょっとトラブルがいろいろ起きてしまったんですね。まずは真田昌幸勝利秘境のものとね言われて非常に人気の高い場所ではありますけども、真田昌幸という人物が領地の戦友をしていたということで、これに方丈記がですねちょっと秀吉に対して訴えを出すわけですよね。ここは詳しくは過去に真田昌幸北条氏政の解説動画でも話していますけども、要はもともと北条が持っていたはずの土地をここは俺たちの土地だぜ、勝手に真田昌幸が抑えちゃってるよと、それはちょっと何とかしてくれないかと、元々ここは俺たちがもらう予定のね場所だったわけですから、秀吉さんから真田昌幸に土地をね領地を取り返したいですということ、この北条氏家を宇島さん言ったわけですね。これに対して秀吉は、「分かった」と、この北条の言ってることはね筋が通ってると、でも真田昌幸も戦国武将としてめちゃめちゃ頑張ってこの土地をね自力で占有してたっていうことがあるわけだから、全部その北条に返すってわけじゃなくて、1/3だけ真田昌幸に上げてで、北条は2/3で我慢してくれないかっていうことは秀吉言ったわけですね。で、これを受けて、まあそれならばしょうがないと本当だったらもう全部ねまるまる欲しいんだけど、秀吉がそのね言うからじゃあ2/3で我慢しますよってことで、約束通り北条は秀吉に従属して、北条家の当主は失うなんですけども、事実上のそのナンバーワンの北条氏政が上洛してで、秀吉にご挨拶しに行きますっていうことですね。準備を始めたっていうところあったわけです。これに対して秀吉はOKだと、そういうことだよね、ちゃんと凋落してくださいと、その代わりちょっと約束通り、氏政が上洛してこなかったらジンブレ出すからね、と、自分のその従えてる徳川家康とか織田信雄とか上杉景勝とか前田利家とかね、色んな大名たちにジンベレ出すからね、と、くれぐらいもくれぐれも約束守ってねっていう風に、秀吉から念押しがありました。で、北条時政はこの時点でちゃんと準備はしてたんですね。上洛する準備はしていたんですが、その中で1つ事件が起きてしまいます。それが北条家臣猪俣州という武将が沢田家のお城間城という城ですね、勝手に占領してしまうという殴る場事件っていうのが起きたんですね。これは秀吉からしたら、「それちょっと約束違うじゃないか」という話ですよね。だから3分の2は北条で1/3は体に残してあげてねっていう風に言ってて、その1/3に入っていたお城なんで、それをこの北条の家臣の猪俣公章は乗っとるっていうのはダメなんですよね。決めたことじゃんと何やってんのっていう話なんですが、これにはですね、まあ諸説あります。真実はわからないんですけども、北条氏直の弁明によると、この殴り込み城の中でまず紛争があったと、城内でね問題が起きたと、どうやら上司とそのねナンバー2の人がおそらく揉めたんじゃないかとで、このナンバー2の人がこの上司をね打つために上杉開発に援軍を頼んだとで、上杉の援軍がやってきて上司をやっつけるぞってなった時に、当然こっちの上司の人はやられたらたまったもんじゃありませんから、じゃあこっちは北条さんに力借りるわって言って、北条家の家臣のこの猪俣公則に助けてくれって言って、猪俣くにのりが出動したとで、ここが戦闘になって猪俣さんが勝利したので、殴る以上が猪俣公則に接収されたというようなことになったんですっていうね、弁明しています。もしかしたら本当にそんなことがあったかもしれません。ちなみにこの時ね、真田昌幸は上洛して秀吉に上洛しに行っていて、この沼田の方には不在だったので、なんか沢田雅之はね何か仕掛けたとかそういうことではないとは思うんですけども、何かそういうね小さな何か争いはどんどん大きなことで発展ししまったということなのかもしれません。はい、まあでもいずれにせよ、それで軍勢を派遣するのであれば、ちゃんと秀吉にね一言言ってからじゃないといけなかったと思うんですけども、それ勝手にやっちゃったので、秀吉からしたら、「いやいや、それはおかしいぞ」という話になってるわけですね。はい、そしてこの事件というのも大きい。さらになかなか北条氏政が上洛してこないというようなこともあったので、秀吉は北条家に対して最後通告をしました。
秀吉と戦っていると、秀吉から心中しろと言われています。注文をつけられ、最終的に従ったことがあります。その時、家康は秀吉の妹の朝日姫が家康の妻になるという条件で人質になりました。また、秀吉のお母さんの所が駿府に行く家康の拠点に行くことになり、人質を出すように要求されました。

家康は、このような待遇をされているにもかかわらず、秀吉に対して弁明し、防衛の準備を整えています。北条時などは秀吉に対して弁明し、一門集や配下の国主たちに対してしっかりと軍備整えとけよと秀吉が攻めてくるかもしれないぞということも言っています。家康は、このような状況下であっても、秀吉の言うことには従っているということを周りに印象づけようとしていました。

しかし、家康は、秀吉に対してこれだけのことをしてくれたらこっちも安心して上洛できるんですけど、秀吉さん私たちにはしてくれてないじゃないですかと不満を持っていました。家康は、自分たちにも何か人質を出してくれたら、すんなりと上洛できると思っていたようです。

さらに、家康は、秀吉に対して裏切りを画策しているわけではなく、その場内での揉め事や紛争があってのことだから別にその秀夫さんに言われた約束を破って領地を奪い取ってやろうっていう風には考えていないと全面否定しています。北条時なども、秀吉に対して弁明し、一門集や配下の国主たちに対してしっかりと軍備整えとけよと秀吉が攻めてくるかもしれないぞということも言っています。

このような状況下であっても、家康は、延命しつつかなり防衛大戦を整えており、一門集や配下の国主たちに対してしっかりと軍備整えるよう指示を出しています。家康は、秀吉に対して判定勝ちをもぎ取れることはできなかったものの、防衛の準備を整え、自分たちにとって最高に一番いい条件での和睦を掴み取りに行こうとしていたと推測されます。

で、一方、それを受けた秀吉は、「いやいや、こっちが正しいんだから」と言って、その人質を出すとかしないけど、まあでも、その殴り身の条件とかに関しては当事者だから、当事者を処罰するとか、さっさと氏政が凋落してくるとか、戦意を見せれば、まあ許してやらんこともないぞ、みたいな感じで、かつ、北条討伐するっていう兵士たちを集めるジンブレをやっています。面白いですよね。だから、北条側の、「いやすいません、ごめんなさい、ごめんなさい」と言いつつでも、戦えるような準備をしてるとで、秀吉も、「いやいや、ちゃんと誠意を見せてくれたら許すよ」と言いつつ、軍勢を集めて戦いに行ってるっていう、なんか、かなり不思議な感じになっちゃってるんですよね。もう、お互い謝ってるし、許してやるって言ってんだからさ。もう、話好きそうじゃないですか。ここで、なのに、なんか、そこがうまいこと噛み合わずに、結局、そのまま小田原合戦に突入していくっていう、なんか、すごくね、この小田原合戦っていうのは、「よし、北条を打つといけないやつで、バンって行った」っていうよりは、なんか、こう、「ヌルヌル、ヌルヌル、どうするの、どうするの、どうするの」という、「お互い、どうするの、どうするの」となってる中で、怒っちゃったみたいな、ま、そういう中で、ぬるっとした始まり方をしています。はい、で、まあ、そんな風になってしまった原因として、よくですね、その自然派と和睦派で、北条家の中は別れていたんだっていう説があります。北条氏政、それから、北条氏てる、宇治国、彼らは主戦派。秀吉なんかに従うか、戦うぞ」と言ってて、投資である北条氏直や、秀吉の取次をやっていた氏規とかは、「いやいや、和睦しましょう」と言っていて、ここの意見がずっと対立し続けてて、結果、何も決まらないまま、滅ぼされちゃったみたいな、ね、そういう説があったりするわけなんですけども、これは、一時的な資料はないみたいです。むしろ、全体的にもう、考え方は統一されていたんじゃないかというふうに言われています。

はい、どういう考え方かというと、基本的にはもう全員秀吉には頭を下げる方向、つまり和睦派だったんじゃないかと言われています。内間さんを含め、その中でなかなか上洛はしなかったけど、準備はちゃんとしているんですよ。でも、やっぱりその身の安全の確保とかをして欲しいから、そんなすぐには「はいはいね」とパーってね行くことはできなかった。途中でなんか裏切られて殺されちゃったりとかしたら嫌だから、なかなかそのいけないただ準備はしっかりしてますと上洛する気持ちはありますよ、という風にしてます。宇治てるとか宇治国っていうのはそれぞれですね。フジテルは佐竹とずーっと争いをしてます。宇治国は真田とずっと事件のその猪俣匡っていうのも、これ宇治国の家臣ですからね。国の名前になってますけど、もうち国士なんで3だと揉めてました。でも、この秀吉に北条氏などの弁明してるこのタイミングにおいては、戦闘行為は一切行ってないですよね。むしろ、いや、その関白様からの命令があるまでは、ちょっと戦ったり絶対しないように、みたいなねトラブルを起こすだよ、みたいなことを、そのそれぞれ言ったりしてるんですよね。部下たちにそういうようなことをしてるので、あくまでちゃんと秀吉の言うことには従うっていうことを、この人たちも考えていた可能性は高いです。なのに、結局戦うってことになってしまったわけですよね。なんでそんなことになってしまったのか、これはその資料が残ってるわけじゃないから、あくまで推測にすぎませんけども、やっぱりその戦国大名として、この秀吉に従うは従うんだけど、でもやっぱただでは従わないぞ、っていうね、そんな簡単に頭下げたらね、その後もどんどん理不尽な要求とかされるかもしれないから、やっぱりある程度はこっちもねできるんだぞ、っていうところを見せなきゃいけない、っていう、そんな簡単に頭下げませんぜ、っていうところをこう見せつつ、なんとか和睦に持っていく、だからかなりいい条件で、自分たちにとって最高に一番いい条件での和睦、っていうのを掴み取りに行こうとしていたんじゃないかな、というふうに推測されます。実際ね、北条旗はものすごい戦力を整えていたので、そんな簡単に負けないだろう、っていう気持ちもあったと思います。まず軍勢数で言うと、これは秀吉側の資料になるんですけど、北条家人数を覚書ってあるみたいで、なんと総勢3万5000機もの戦力が空いたと言われています。3万5000騎です。3万5000人ではなくてね、これは文字通りに読み取れば黄ばみさの数ですよね。はい、あの鎌倉時代とかはね、話とかだとやっぱり南紀とかね出てくると、それは黄ばみさんの数を指してるんですけども、戦国時代をこれが丸々全部極めたっていうことかどうか、ちょっと分かりませんけども、少なくとも正規兵の数をね指してると言われています。なので、3万5000人の正規兵がいて、そこにその雇用されるね足軽だったりとか、そういう人たち傭兵みたいな人たちとかもいるわけですから、まあ、3万5000以上の人数の戦力がいた、5万人はいたんじゃないかというふうに言われています。で、さらにこれね、関東のね秀吉と捉え方白、それからね、その戦った武将たちの拠点の数を見ると、ですね、なんと50以上、50以上もの城があるんですよ。5万人もの変数と50以上の城、さらに小田原城本拠地、小田原城は総構えって言われる戦国時代最大の城郭を備えています。普通にもお城があって城下町があって、普通は防御機構っていうのはこのお城にだけあるわけなんですけど、総構えっていうのはお城+その人々が暮らしたりとかしてる城下町も丸ごと調査にしてしまうっていうね、恐ろしい防御力を持った城構えなんですよ。それが総構えなんですけども、その総構えの城っていうのは、結局この後ね、秀吉に攻撃されますけども、落とすことはできなかったわけですからね、力ではめちゃめちゃだから、防御力が強いこだわる城っていうのあるわけですよ。

これは、天正15年のラン以降、いつ秀吉と戦いになってもおかしくないという中で、着々とこの準備を進めていたわけです。もう何年も前から白づくりをやっていたわけですから、これだけしっかりとした備え、軍勢と城総構えがあると、やっぱり簡単には負けないだろうと、いい勝負だろうとは思っちゃうと思うんですよね。それは、桶狭間の戦いみたいに、敵や大軍でも、大将の首だけ取って勝ちみたいなことができたら一番いいんでしょうけど、さすがにそんな夢物語は見てないとは思うんですけど。でも、秀吉が「うわ、これダメだ」と北条が強すぎて簡単には落とせねえわ、参ったって言わせるぐらいのことは、判定勝ちぐらいはできるんじゃないかなという風に思ってたかもしれませんで。これ以外にも、結果的に全く当てにはなりませんでしたけども、東北には、伊達政宗という武将がいまして、この伊達政宗と北条次男は、ずっとこういう関係を築いていますからね。はい、だから、伊達政宗の力も借りれるかもしれないとか、そういった色んな状況があれば、判定勝ちをもぎ取れるかもしれないと思いながら、戦いに挑んだのかもしれません。

はい、しかし秀吉軍の陣立ては22万2千騎で、総合的に見ても相当な数です。人数に換算するとおそらく30万人以上になるでしょう。この兵力によって、小田原城は瞬く間に落とされ、最終的には小田原城忍城の2つの城しか残らなかったことになります。50以上の城があったにもかかわらず、ほとんどが落城してしまいました。これは、放送側が見くびっていたのかもしれません。それまで武田信玄上杉謙信などが散々登場してきたわけですから、そんな簡単に負けるわけがないと思ったのでしょう。しかし、この頃の秀吉の軍隊はオールスターのような感じで、徳川家康が3万人、織田信勝が1万5000人、蒲生氏郷が4000人、前田利家が1万8000人、上杉改革が1万人、澤田正幸が3000人、長宗我部元親が2500人、クッキー吉高などもいます。もうオールスター軍団で攻めてきているわけですから、勝つことはできませんよね。石田三成がお指示を落とせなかったせいで、道なりは戦が下手だとか色々言われちゃっていますが、とにかく方丈記が思っていた以上に秀吉軍が強かったということでしょうね。