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信長の死後 秀吉の織田家乗っ取り計画と家康の適格な動き 清須会議の実態

**信長の死後 秀吉の織田家乗っ取り計画と家康の適格な動き 清須会議の実態**

大河ドラマどうする家康がより面白くなる歴史解説です。
はいというわけで今回の内容はそうですね最後に自分を襲ったのが家康ってなかったというところ気がついたらねあの時の形相たるやすごかったですね。

すごいことですが、こんなものを初めて見ました。白紙の演技で死んでしまい、テレビでその後堺でそのことを知った安子さん一行がイカ声をするところに入って、イカ越えも終わりました。確か終わってから、あの実は番組では概ねカットされたんですけど、信長が亡くなった後、秀吉は何をしてたんだろうかということになりますね。おかずに帰ったから、そこを今日最初にご紹介しておきたいと思います。ドラマでやらなかった部分の補充です。これ作ってる時に、そういうなんかそのネットの投稿が多かったんですけど、これどうしていたかっていうすごい大事な部分をカットしたじゃないかみたいな意見で、まあ大事な部分ではあるけども、概ね分かっていることでしたので、多分カットしたんだろうと思います。まあ、そういう方、私たちのために補充をしたいと思います。ありがたい包丁でございます。その後、この方は何をやってたかというと、いきなり殺されちゃいましたけど、実は、色々誤算があったんだけど、結構調停拘束が順調に進んでたんですね。安土城に入って、安土にある財宝を持ってきて、それを朝廷に全部献上したんですね。献上しながら、「次へ。お前に任せるぞ」というところまで、朝廷から引き出してます。そういうのは、「次の、社会はお前に任せる」ということで、つまり、形の上での整理大将軍までなっちゃってるわけですよね。いろいろ持ってきたて信のものですよね。いろいろひどいな。ここまではまあまあ行ったんですけども、その間に、この人の誤算は2つあったんです。1つは、自分が味方になってくれよと出した手紙の相手、自分と親しくしていた人たち、大名たちが、人にも自分の味方になってくれなかった。でも、ならないでしょうね。味方の取り付けに失敗をしました。これ、例えば、一番有名なのが、細川藤孝と忠興親子です。この細川忠興には、自分の娘を嫁に出していました。有名な細川ガラシャで、この時にはもう、「言うこと聞かない。お前の味方しないぞ」ということを表すために、ただ、起きはガラシャを愛してたんだけど、幽閉するんですよね。もうしばらくで、藤孝もそのまま光秀から離れていきます。これ、大誤算だったんですね。味方はいなくなった。その他、この際は、神戸信孝って言います。一切、神戸に領主を持っていた織田信長の次男です。今、本当は三男なんですけどね。三男の信孝への忠誠を示した織田信長。それから、まだ、高山右近とかね、筒井順慶なんてのは、結構、光秀だとうまくやってたんですよ。仲間良くなったら、これ切りしたんでしょ。で、自分の娘もキリストになってくるんですけどね。こういう石鹸があったからですよね。だから、筒井順慶、これもそうですが、これは、全部味方だと思っていました。全部秀吉に広がっていきました。また、この辺でものすごい、そうですね。どんどん広がっていくっていうのは、もんですよ。
で、そのもう1つの誤算はね、秀吉が6月2日に信長を殺してからわずか本当は7日間で、って言ってるけども、13日にはつまり10日ちょっとで、中国にずーっと中国地方の方に遠征していた秀吉君が、およそ200キロの距離を帰ってきた。何万という名を連れてこんなに早く帰ってくると思わなかった。まだ体制も整え整えないうちにね、京都に入り口山崎というとこまで来て、こう退治することになっちゃったんですね。中国戦線から引き返した羽柴秀吉軍と衝突。これが大誤算だったんですね。こんなに早くなると思ってなかったで、ここの明智光秀での単位の中で、あの一番最初の本能寺に切り込んで行った斎藤利光と言います。彼らがね、一番強かったんですが、これが簡単に破られて、明智軍はあっという間に総崩れになっちゃうんです。だから、この大誤算が2つあったら、味方が入らなかった。それから、秀吉が思うよりも早く帰ってきちゃったで、体制整わないうちに戦になった。やられてやられた。そして、光秀は坂本城に落ち延びていきます。その途中、ドミンにより竹小栗栖というところで、ね、京都の中ですよ、もう行ってきましたけどね、日が経ってましたね。ここで、光秀は殺されたっていうね、シーンありましたよね。最初に子供に刺されてましたね。長らくできないと思うんですけどね、ちょっと、なんか、あの最後もね、寂しい最後で、家康とのこの体重もあれ、凄かったですね。明智は本人曰く、明智じゃないって、自分は違うって言ったにも関わらず、家康はもうね、伊賀のものが全員が俺が癒しだ、私が癒やすたって言って、認めて、自分はいろいろなね、この場面のスナップあるんですけどね、あの方の表情が、どのスナップを見ても、全部違うんです。豊かだというのかね、素晴らしいですね。もう本当にうまい。確かにということで、実はね、この人、どっから殺されたのは、どうもその小栗栖だろうということは言われてますが、あって、その他の資料でね、首がどうなった、どうなったか、結構不明なんですよ。一時期、胴体と首がこう縫われて、京都にさらされた後に、ということも書いてありましたけど、胴体とくっつけても、首をこう切って、ね、広島のもとに届けられたらしいんですが、その後、さらされて、その後、首がどうなったかわからないで、これはね、その首結局切られた首を、おそらく祀ったところだろうと思うんですが、京都の知恩院の近くなんですね。あのこっちにね、和菓子屋さんがあって、和菓子屋さんの敷地内にあるらしいんですね。ああ、そうですか。明智光秀首塚って、割と探しにくいところです。皆さん、ここ、ちょっと、こう、メモしといて、探し当ててみてください。実はね、ここが一番本物だと言われてるそうですか。なと思っ。いずれにしろ、もう一つの施設では、首がね、見つからなかったということで、ここに多分あるだろうということなんですが、本当は死んでないんじゃないのかっていう説もあってね、で、天下になったんじゃないかという、そういう説というのか、それは切にはならないですね。何の資料にも基づきませんので、欲しいという方もいる。あと2個の東照宮には、決して平があったりとか、明智の家紋の武士がこう守ってたりとか、だから、明智光秀はそのまま生き延びて、天界をお世話になったんではないかという説ですが、これこそ本当に信憑性があるにしろ、ないにしろ、それを表す資料が一つもありませんので、僕はちょっと、まあ、その辺はどうかなと思いますが、ただ、光秀もしくはね、光秀のね甥になるんですけどね、実際に資料でわかってる、坂本城に戻って以後、行方不明になったという部署がいます。明智の秀光で、これは資料が残ってます。その方の生まれたのは、およそですけど、天下と同じ年に生まれて、ということは、だから、そっちの可能性なら、僕はあると思うんですけどね。ちょっと混ざっちゃってる部分もあるんですかね。ただ、興味深い方はね、色々調べられると面白いと思います。ここで一応、こういった首塚がありますよ。開けち饅頭。ここでですか。[笑い]なと思って、明智さん役の方もそうなんですけど、何て言うんですかね、基本的に嫌な役を上手に演じることができる役者さんって、すごいと思うんですけど、ものすごくやってますよね。でもね、この後ね、時々すごい言葉を発してきます。彼だったらできるかなという感じの、長編の仕方っていうんですかね。ずっとこう、蔑まれてきた武将だったでしょ。周りからあれですもんね。だから、それに対してのね、その自分はそれでいいんだよ、というところがあってね。でも、自分が一番の権力者になるんだよ、成り上がりたいですよね。あるところではね。
今回の役割は多岐にわたりますが、後半で変化してきます。しかし、秀吉にやられてしまったため、怒る人たちもいました。家康に何をしているのかという声もありました。岡崎に帰ってから、すぐに京都に向かえばよかったのに、榊原さんたちはなぜ出兵しなかったのでしょうか。今がチャンスだったのに、添加物ではないかという意見もあります。私が答えを出します。4日に帰ったのは確かですが、7日には仮や水野と書いてあります。京都で討ち死にする可能性があるということです。刈谷の水野惣兵衛というのは、水野正成の弟でした。水野正成が殺された後、水野惣兵衛は織田信忠に仕えていました。息子の信忠も殺されましたが、水野家も死んでしまったようです。9日になって、水野惣兵衛は突然帰ってきました。京都に隠れていて、水の毛は弟の正しげが織田信忠に仕えていました。帰ってきて無事だったので、みんなびっくりしていました。研究者の先生の中には、これが帰ってきた隠れていた岡崎の家康のもとに帰ってきたじゃあロケ地と家康はやっぱりつるんでたんじゃないのかという意見もありますが、考えすぎじゃないかなと思います。13日には、すでに岡崎まで戻っていました。これは誰が家康がで自分が白いです出資しました。出兵するために来いと言われたようです。遅すぎると思います。帰ったらすぐに開けちゃううちに京都に登るぞという感じだったようです。15日には、旗本絵で候ということで、家康のもとの旗本のところに行ったのでしょう。軍議が行われ、明智を京都にてサン七度の37というのは、これがノブ潜ったかじゃないな、織田信朗か、筑前秀吉ね五郎左っていうのは、これは長秀のことですね。これ池田恒興討ち取り候補よ。15日には、13日にこの日にさっき言った山崎の合戦があって、15日にはもう討ち取ったぞと、伊勢勘兵衛より中心候補でいいと思います。一切神戸っていうのはこの両国です。
17日に1日空けて、酒田帝王選手が対馬に向かう途中で、人外送料と書かれたものを討ち取ったと報告がありました。しかし、鳴海にいた酒井西門上の多様性集団は、17日には既に対馬に陣を進めていたようです。17日には、屈強な旗本衆が集まった「酒井西門上の多様性集」という集団が対馬に進軍したとのことです。この報告を聞いた秀吉は驚きました。また、水野送迎という言葉がありますが、これは水野という人物が関係しているようです。岡崎に帰還して9日目にようやく出兵員をし、翌14日には鳴海まで進軍し、明智光秀を討ち取ったという知らせが届きました。しかし、17日にはまだ対馬に人外がいたため、まだ先に進もうとしていたようです。家康の最初の狙いは明智を打つことではなく、京都に出てきて誰と対決するかを決めるためだったのではないかという研究者もいます。19日には、羽柴筑前のところで髪型が一気に変わり、鬼神将に戻ってくれという声が上がりました。対馬より鳴海まで帰り、さらに福岡まで帰還するため、22日には完全に撤退した様子が書かれています。しかし、26日には雨が降り、浜松まで急いで移動しました。DSの狙いは、信州に進出することだったようです。信州の儀についての談合に入ったことが書かれており、秀吉が驚いたということもわかります。この日記から、秀吉が明智を打った後、どうするかを見ていた節があることがわかります。また、ドラマの裏側を知ることができ、面白みが増します。全勢力を回避するために、海と信濃を特に考慮していたことがわかります。
これをまとめると、6月4日に岡崎に帰還し、14日に鳴海まで出陣する。それから15日に光秀が討ち取られたことを伊勢幹部からの連絡で知る。17日には酒井忠次が寄せて集津島まで出兵し、それ以降は「これより手」と呼ばれるようになる。僕は「寄せて」と呼んでいるが、他にも「これより手」と読む人がいる。6月19日には秀吉から京都は一変したという連絡が来た。ここから鬼神水曜陽性が来た。僕は家康が京都に出て秀吉と1000人交えるつもりだったのではないかと想像しているが、これはあくまでも騒動である。他の研究者の先生方もこの説を取っている人がいるが、事実認識が大事であると思う。例えば、先生方の教育論文を読んだときには、一般論で持ってきてはいけない。近頃子どもたちが運動をしなくなったと言われているが、自分のクラスで放火に何人の子が外にいて遊んでいて、何人が家庭に帰ってからどうだったかを調査し、事実を持ってきてから、関連付けをしていくことが大切である。歴史上の事実とは、信憑性があるものが事実であり、残っているものは全て事実である。ただし、事実は真実ではない。家康が京都に出て秀吉と1000人交えるつもりだったのかどうかは、私の想像に過ぎない。歴史は闇の中であり、これが真実かどうかは分からない。この番組の名前が「なるほど!歴史ミステリー」ということになっているように、歴史はミステリーである。コメントで皆さんの見解を言っていただくことは全然構わない。秀吉は織田家の小高中の第一人者になっていったことは、皆さんもご存知だと思う。
清洲会議の結果、どのようなことが決定されたのか、清洲でこの後どうするのかということを決めた集まりでした。非常時だけ秀吉、それから柴田勝家には流しで、池田綱沖、そうそうのメンバーが集まってきて、この後どうするかを決めたんですけども、これね、一番気を使いよく言われるのは、信長信忠の後釜をどうするか、間違えちゃいけませんよ。信長の後釜をどうするかじゃないですよ。信長の後釜、信忠に決まっていて、信忠も一緒に死んでしまいましたから、信忠の跡がもうどうするかと、それがね、信長の後が待って行っちゃうと、この後全部信長の子供たちには出てきちゃうそうですね[笑い]。で、天正10年6月、もう6月2日に本能寺があって、この6月中には気を使いが広がる信長の後継者を決めるということでやったんだけど、出てきたのは、信忠の後継者でしょ。だから、柴田勝家は三男の信孝にしましょう、このつもりだったね。ところが、秀吉は嫡男の散歩しまるでしょう、これが一番筋が通ってますよ。そしたら、言われたら、そうだよな、としか言いようがないわけでも、秀吉の計略にはまっていくんですけども、経営者にも一応筋を通してるんだから、彼はで賛同し、丸も結局、どういう風に落とすところをつけたかというと、信孝が貢献しましょう、成長するまでは、あなたが織田をトップで率いてくださいよ、と、我々が支えますよ、という落としどころ一応作ったんですね。だけども、本当は、これね、実は、その清洲会ではなくて、ね、僕は岐阜会じゃないかというのはね、さっき言ったように、いろんな事実が書いてある資料が、これは真実じゃないですからね。だから、いろんな視点から見てみるその中で、僕はちょっと着目したのが、このカワスミ対抗記という[音楽]、川澄対向機太閤秀吉の実録で、田中義昌というね、秀吉の家臣がいましたが、その家臣の川澄三郎右衛門が書いたもので、弦が7年というと、家康が死んだ5年後から寛永2年、比較的一番近いところで書かれた頃の記録なんです。実力そこに超えて書いてある川澄み太閤記で、原文っていうのかな、これがちょっと手になくって、一部あるとこあるんですけどね、どんどん予約をしてあるものですから、そのまま書いてくださいね。
ところで、ここが面白い。越前北庄の柴田勝家岐阜城に思考し、岐阜城に行った織田信孝を伊勢神戸城から岐阜城に移した。これは事実である。だから信者が岐阜城にいる。柴田勝家は信孝を対象にしたかったのだろう。そして、5軍国の大名正面に至るまで岐阜に詰められ、談合を申したいことがあると震えを出したので、各々は残りなく詰めたという。岐阜に集まった秀吉も、姫路を出て岐阜に3着した。清洲会議じゃない。何で清洲でやったのか、理由がわからない。清洲は、その当時は次男の信勝(このお兄さんになるんだよね)の多分後ろだったと思いますが、信勝なんか全然出てこない訴状にで、信孝だけ出てきた。それを信勝の関係ないところの城でやるかどうか、全部集めて彼の城にしたんなら、岐阜に集まれたということが一番自然じゃないかなと僕は思うんですけどね。まあ、こういう資料もあるよ。だから、本当に言うと、清洲会議って当たり前のように言うけど、清洲じゃなかったかもしれませんよ、ということ。こういうことを言うんですよ。今更、こんな信憑性のない資料で何を言ってるかという人がいたら、あなたはこれ、本当に信憑性がないかどうかってことを確かめてください。あれですからね。こういう資料もありますよ、という。[音楽]貴重ですよね。面白いです。でも、大事なことがね、後釜を決めて落としどころを作ったまでは良かったんだけど、医療分割大変そうだ。本当に医療を家臣たちが一応ね分割して持ったんですね。織田信雄は、この時に尾張南伊勢などバンともらった。それから信孝。彼はミノーだったんですよ。それから、この人主な人で、柴田勝家。彼は越前大湊長浜などをもらったんです。元々一段を持ってたんで、これだけ増えただけだったから、ご褒美が少ないということですね。一番ご褒美が多かったのが誰?秀吉ですよね。今日も、京都、大阪、全部もらった。これは、これは秀吉一番ドン。ここで石高も増えて、おざけ家臣の中ではトップの国だからね。これが大事だったんです。だから、清洲会議の結果というのは、ここを見なきゃダメ。さあ、これで危機を感じた人が出てきます。これがね、大変なことになっちゃう。相手は誰?この人は、柴田。ご褒美少なかったです。会議の中で取り決めたというよりも、その前にどうも決まったらしいとか、いろいろ事情がわかってないんですよ。だから、多分ね、ドラマではね、この市の方って、秀吉嫌いだっての、一般的に言われてましたよね。秀吉に織田のことを全部思うようにさしてはなりません。そうですね。だから、第一の家臣である柴田勝家と私目が一緒になりましょうということで、私がにらみを聞かしている限り、さらに思うようなことはさせないという意味があったんではなかろうかという風に考えられる。ここがね、組むことで、ということですよね。
これで一緒になって信孝と散歩し、丸を貢献することになった。だから三法師を連れて岐阜城に入った。ところが、手のひら返しをしたのが秀吉だ。手放してほしい信勝様に面倒見てもらう後継者を動かすため、これはなんだかんだ理由をつけたみたいだ。これは必ず自分だけ言ったじゃないよっていう形を取りまして、にはもう池田も行っていると、そしてかの徳川殿も言っていると。彼らにとって徳川は家康は独立した代々木落ちるわけではない。織田家の家臣ドラマの中の歌詞になる。やったでしょ。だから、徳川様も言ってるよということで取り上げようとしたんですよ。騒乱がこれで起きてくるけど、イエス様他と言ってこれは見ていないが、信孝、これに滝川市ます。柴田勝家のこれらがグループになって挙兵をします。で、これが賤ヶ岳の合戦につながっていくんですね。このことは今日はあんまりやりませんが、この時に勝家がやられそうになって不利になる。だから、徳川家康に贈り物を出してる面のこれはね言えたら日記出てきますで、それが麺の織物じゃなくて、ごめん麺の束になってたのかな。そのままね、それが来てるんだけど、ドラマでもね、多分出てくると思いますが、なんとか味方になってくれよと。だから、それを送ったのは誰かというと、家康と特別に関係にあった女性の方。そうですか。金ヶ崎の時に小豆を旅行して。だからいいですね。どうしたらいいんだ。またここでも助けたいような、助けたいですよね。だけど、家臣はダメです。とんでもない兵力になっている。家康は迷って悩んで結局何もできなかった。見ていろ。でも、お市も死んでしまいます。信勝が信孝の岐阜城を囲みます。根信高はそこから引きずり出されて知多半島に送られる途中で殺されます。こうやって信勝信孝は殺されてしまうということになってるんですか。ならなくなってきたらやるということですよね。さあ、そして秀吉が小高中ナンバー1になってる。これはもう秀吉のせいで兄弟同士が争っちゃったっていうことですよね。だから実は信勝とね信長って兄弟なんですけどね、信和の通称が三助。三助で信孝三吉になってるんだけど、なんで3かというと、実際に早く生まれたのはこっちだったで、後に生まれたのが信勝だった。ここに出てくるね。ところが、資料上では信勝が次男で信孝さんでもこっちの方がどうも優れたという人がいますけども、本当に優れていたかどうかっていうのは僕もわかってないんですね。優れていたという風に言われてるんだけどで、まあ、信孝がいいんじゃないのかと最初に持って来られたんだね。ところが、この信勝って結構漁師広げてるんですよ。養子に入ってから北畠を滅ぼしながら自分どんどんと近づけて。だから、そんなにひ弱じゃないと思うんですけどね。兄弟の関係ってことで理解をしといてください。では、死にました。秀吉がナンバーワンになってる。彼が死んで殺した美しいな。本当に最後武装武装の姿で戦うんですけどね。私が勝家だよね。私がここの城の大将です。猿に思いをさせと言って自分自らが武装するんだけども、白はもう燃えて割礼が来て、一緒にしろということになる。一緒に死のうというよりも、娘たちと3人と一緒にしろよ。でも、前の浅井長政の時の自分と娘さんには旦那が死ぬのを残して出ちゃった。もう今回はそんなことできませんと言って残るんですね。残って彼女も一緒に自害しちゃうんですが、これが北の庄公園っていうのが福井県にあります。ここに北庄があった場所。ここに柴田勝家の像が。ここにこれがもう1の方。それと焼け出された三姉妹が像があります。秀吉の門には左遷。最後まで織田家の地はこの3人の娘がついでいくぞよってことになる。その一番上のお姉ちゃんが淀君に、2番目のおはつは兵庫県、3番目のお郷は徳川家の将軍の奥さんに。ずっとお市の詩はもう国会のすべてのトップに流れていく。この結果面白いですよということでありまして、最初今日はちょっと長かったですが、本当は家康はね、この間にも北条と争いを始めている。ただ、その話はちょっと長くなるので、ちょっと次回させてもらって、今日ここまでということにいたしましょうかね。