英語のことわざに、「Rats desert a sinking ship.」というのがあり、これを日本語に翻訳すると「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」になります。
ビジネスで例えるなら、倒産するのが目に見えている会社にしがみつかずに、さっさと転職先を見つけて転職する...といった意味になるでしょう。
戦国時代にも、「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」を実行していた武将たちは何人もいて、主君の側近として仕えていても、意外とクールに軍勢を離れていったりするものなのです。
武田信玄に仕え、その後、息子の勝頼に仕えた穴山信君も、沈みかけた船を見捨てることを選んだネズミの一匹でした。
江戸時代には、武田信玄の忠臣たちを浮世絵にして「武田二十四将図」なるものが、いくつも描かれていますが、その中に必ず出てくるほどの忠臣が、穴山信君だったのです。
今回は甲斐武田氏から見れば、裏切り者として知られる穴山信君の生涯を見ていきます。
もちろん、その選択が正しかったのか、間違っていたのか...そんなことは判断できませんが、戦国時代を生きる武将達の苦悩を語る上で、信君は外せない人物だといえるのです。
##甲斐武田氏の歩み
甲斐武田氏といえば、甲斐源氏の宗家として、駿河国の守護になり、その存在を世に知らしめていました。
源頼朝は武田信義を警戒し、信義を失脚に追い込んだため、武田氏は存続の危機に直面したのです。
しかし、何とか滅びずに鎌倉時代、室町時代を経て、勢力を拡大し、甲斐国守護にまでなっています。
戦国時代には、武田信玄の登場により、甲斐の武田氏の名は誰もが知るようになりますが、信玄亡き後は、急速に衰退していき、勝頼の時代に終焉を迎えるのです。
穴山氏は、代々、武田の家に養子として迎えられた者たちが家督を注いできたため、甲斐武田氏と密なる関係にありました。
しかし、武田氏一族でありながら、武田宗家とは一線を引かれていたのです。
先ほどもお話ししたように、甲斐国守護を任されていた武田宗家ですが、1416年の「上杉禅秀の乱」により一度、断絶しています。
これは、当時の主君である武田信満(のぶみつ)が上杉禅秀の味方をしたことで、鎌倉府より制裁を加えられたわけですが、そのため、甲斐国守護は穴山氏の穴山光晴(みつはる)が務めたのです。
これにより穴山氏が武田宗家を継承する可能性も出てきますが、穴山光晴は突然、病死してしまいます。
そのタイミングで亡命していた武田宗家の嫡男・信重(のぶしげ)が戻ってきて、家督を継いだために、穴山氏が武田宗家を継承することはなかったのです。
かなり、「きな臭い匂い」がしてくる話ですが、このような経緯もあり、戦国時代に入ってからの穴山信君の裏切り行為は、単純に武田勝頼と、穴山信君の不仲だけが原因ではないという説も唱えられていきます。
##穴山信忠の生い立ち
1541年穴山信友(のぶとも)の嫡男として、穴山信君は生まれます。
母は、武田信虎(のぶとら)の次女であり、武田信玄の姉にあたります。
父の信友と比べて、信君は武田氏に対して同族意識が強かったと言われていますが、叔父となるのが、あの武田信玄であれば納得できるような気がします。
その一方で、武田宗家の側は穴山氏をどのように見ていたかといえば、その境界線はしっかりと引かれていたのです。
つまり、信君と武田宗家の間には、信頼感という温度差がかなりあったように思えてなりません。
そのことは父の信友も気にしていたのではないでしょうか。
甲斐武田氏の用務などを日誌として記した「高白斎記(こうはくさいき)」によると、1553年頃には、信君は武田宗家の人質として、甲府に預けられています。
父・信友は河内地方の支配を進めており、これには武田氏の関与はなかったため、信友が独自に行っていたとみられているのです。
この河内領支配に関する事柄は、文書に残されていますが、それが書かれた同じ年に信友は出家し、家督を信君に譲っています。
これらの出来事が何を意味するのか、考えていくと、武田氏と穴山氏の間に戦国時代らしい、緊張感のある空気があったように思えてくるのです。
##調略、交渉のエキスパートとして活躍する
武田信玄に仕えた穴山信君が得意としていたのが、氏族間における外交術でした。
特に武田氏にとって厄介な存在である、隣国・今川氏との外交において、力を発揮していたのです。
「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死しますが、この出来事は今川氏にとっては、終わりの始まりとなるのです。
のちの徳川家康となる松平元康が、今川氏を見限り離反して、織田信長同盟を結んだり、今川氏真に対して家臣たちが起こした「遠州総劇」が勃発するなど、今川氏は滅亡への道を突き進みます。
信君は自らのネットワークをフル活用して、迅速に情報収集を行い、これらの様子を信玄に随時、報告をしています。
織田・徳川軍とぶつかり合った駿河国と近江の国への侵攻では、今川の家臣に対して調略を行ったり、徳川軍との同盟交渉を、自らが中心となり進めるなど、信玄の片腕としての役目を果たしました。
1569年に葛山氏元(かつらやまうじもと)と手を組み、北条氏と今川氏の背後を攻めるため、駿河大宮城の攻略に動き出し、一度は失敗するも、二回目の攻略で大宮城を落とすことに成功します。
##武田勝頼との不仲を決定づけた長篠の戦いと娘の縁談話
武田信玄の戦の中でも、有名な「川中島の戦い」や「三方ヶ原の戦い」でも信君は、武田軍の武将として戦い、いくつもの戦果を残しています。
武田氏の軍学書である「甲陽軍鑑」には、信君の名前は何度も出てくるので、それだけ重要な役割を担っていたことは間違いがありません。
そのような家臣がなぜ、武田氏を裏切ることになったのかは、不思議ではありますが、原因の一要素として挙げられるのは、やはり、信玄の息子・勝頼との関係だったのです。
1573年、信玄が病によりこの世を去った後、武田氏は衰退の一途を辿りますが、後を継いだ武田勝頼と意見が合わなかった信君は、足並みを揃えることができませんでした。
その2人の不仲に拍車をかけたのが「長篠の戦い」であったと言われています。
前回も苦戦を強いられた、信長・家康の連合軍が相手となる「長篠の戦い」に信君は反対の意を示しましたが、勝頼は戦に乗り気であり両者の意見はぶつかりました。
信君率いる穴山足の者たちは、早めに撤退し、被害も少なめに済みましたが、武田軍としては多くの重臣たちが命を落とす、苦い結果となったのです。
「武田四天王」の一人、春日虎綱(とらつな)は、長篠の戦いの敗戦を知ると、勝頼に意見書を書きますが、その中には信君の切腹を求める内容も含まれていました。
さすがに勝頼は、この意見を退けたといいますが、春日虎綱に限らず、信君に対して批判的な態度を示す武田の重臣は、少なくなかったと予想されます。
また一説によると、信君は自分の嫡男と勝頼の娘を結婚させるつもりでしたが、勝頼は武田信豊の子に、娘を嫁がせようとしたため、信君と勝頼は、修復不可能な間柄になったという見方がされているのです。
これらの理由から、ついに信君は武田氏に愛想を尽かしてしまったというのが、一般的な見解となりますが、果たして、それが正しいのかどうかは明確な根拠はないと、言わざるを得ないでしょう。
##武田氏の裏切り者としての最後
1582年、織田信長の「甲州征伐」により、武田勝頼は追い詰められ自害したことで、武田宗家はついに滅亡することとなります。
「甲州征伐」を抑えられないと考えていた信君は、信長の誘いにのり、勝頼を裏切り侵攻の手助けをする情報を漏らします。
この頃には信君は出家し、家督を譲っていましたが、穴山氏の実権を握っていることに変わりはありませんでした。
信君は、織田・徳川連合軍に協力する条件として、穴山氏が武田の名を継ぐことを認めるように求めていますので、ここに来て、甲斐武田氏の実権を握るチャンスが巡ってきたわけです。
その願いは叶ったものの、信君はすぐにこの世を去ることとなります。
家康と信君は信長に呼ばれて、安土城に出向きますが、その帰りにあの「本能寺の変」が起こるのです。
明智光秀の放った落ち武者狩りの追手は、家康と信君にも迫っていますので、まずは必死に逃亡しようとします。
家康は何とか逃げ切りますが、信君の方は、京都の宇治田原あたりで、里に住む人たちの一揆に巻き込まれて、41歳で命を落とすことになるのです。
一説によれば、この一揆は光秀が仕掛けたものと言われていたり、殺害ではなく信君が自害をしたとも言われていますので、謎が残る最後として語り継がれています。
##まとめ
武田勝頼を裏切ってまで得た甲斐武田氏の実権。
信君はそれを手に入れた後、すぐに他界しますが、後を継いだ嫡男の勝千代もまた、長くは生きられませんでした。
武田信春(のぶはる)を名乗り、武田氏当主になったものの、わずか5年で疱瘡により、病死してしまいます。
やっと武田氏の名を掲げられるようになった旧穴山氏ですが、勝千代の死によって、その血は途絶えることとなってしまったのです。
歌川芳艶(うたがわよしつや)の浮世絵「川中島大合戦組討尽」は、全部で12枚ありますが、その6枚目に信君が描かれています。
出家後の穴山梅雪の名で登場していますが、その形相は目が血走しり、口から血を流しているのです。
この妖怪のような恐ろしい姿は、信君が甲斐武田氏を裏切った極悪人であることを強調しているのかもしれません。
しかし、戦国時代の世で言えば、何が正しくて何が悪いことなのか、それは簡単には決められないことなのでしょう。
END
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