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あの「味の素」が半導体を独占していた

今日は、一見普通の調味料メーカーと思われがちな味の素が、実はどのようにして半導体業界に革命をもたらしているのか、その驚くべき物語をご紹介します。

ご存知でしたか?

味の素は、ABF(アノビルドアップフィルム)という素材を生産しているんです。

この素材は、デジタル製品の中核を形成するCPUの製造に不可欠で、世界中の大手IT企業がこの技術に依存しているのです。
ABFは、CPU製造における多くの課題を解決し、薄型化や生産性の向上、さらには設計の自由度の向上など、数々の利点を提供しています。

これにより、味の素ファインテクノは、その世界市場でほぼ100%のシェアを占めています。

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今日は、このABFの驚異的な物語を深く掘り下げ、日本が世界のテクノロジーをどのようにリードしているかをご覧いただきます。それでは、この感動の旅に一緒に出発しましょう!

冬のアルプス越え!佐々成政の秘話

「冬のアルプス越え!佐々成政の秘話」という動画のイントロダクションを500文字で作成します。
戦国時代、多くの武将が名を馳せた中でも、佐々成政は特異な存在でした。

彼の人生は、ただの猛将としての活躍に留まらず、数々のドラマチックな出来事に彩られています。

今回の動画「冬のアルプス越え!佐々成政の秘話」では、その中でも特に衝撃的なエピソード、冬のアルプス立山連峰を越えた壮絶な旅に焦点を当てます。
この驚異的な越山行は、ただの冒険譚ではありません。

それは、佐々成政羽柴秀吉との確執の中で、孤立無援の状況から抜け出し、同盟を求めて徳川家康に会うための命がけの試みでした。

この行動は、当時の政治的な複雑さと、個人の信念の強さを色濃く反映しています。

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この動画では、佐々成政の生き様と彼の時代の背景を深く掘り下げ、視聴者の皆様に戦国時代の生々しいリアリティをお届けします。戦国の世を生き抜いた一人の武将がどのようにして歴史にその名を刻んだのか。その答えを、この動画で明らかにします。

刀と商才で世を制す!斎藤道三:油商人から美濃の覇者への壮絶な道のり

戦国時代、一国を手中に収めた男、斎藤道三

油売りの商人から美濃の大名にまで上り詰めた彼の物語は、まさに下克上の象徴です。本記事では、この異色の武士、道三の生涯を深掘りします。

京都で生まれ、若くして僧侶となり、その後は油商人として名を馳せた道三。

しかし、彼の野望は商売の世界に留まらず、武士へと転身。

知略と武勇を武器に、美濃国の権力を掌握しました。

織田信長の義父としても知られる彼の、狡猾でありながら魅力的な人生を、戦国の舞台を背景に紐解いていきます。

道三の成功の秘密とは?彼の歴史に残る足跡を追いながら、戦国時代の生き様を探ります。

油売りから美濃の支配者へ。斎藤道三の驚異の人生を紹介🏯🗡️ 下克上の精神と知略で歴史を塗り替えた男。彼の戦略と野望、織田信長との関係に迫る!#戦国時代 #斎藤道三 #下克上伝説 🌟📜

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「これが日本だ!」英国人が絶賛する成田空港の秘密

こんにちは、皆さん!今日は特別なお話をお届けします。

イギリスからの旅人ケリー・マッカーシーさんが、成田空港で体験した驚きと感動の瞬間をご紹介します。世界的に評価の高い日本の空港、その中でも成田は特に注目に値する場所です。

ケリーさんは、成田空港の未来的なデザイン、ハイテクセキュリティ、日本独自のおもてなし文化に深く感銘を受けました。

彼の話を聞くと、私たちにとっては日常の光景も、外国人の目には全く新しい世界のように映るんですね。日本の空港がどれほど世界に誇れる場所なのか、ケリーさんの目を通してご覧ください。

一緒に、日本の素晴らしさを再発見しましょう!


このイントロダクションは、視聴者に対して興味を惹くように設計されており、ケリーさんの体験に基づいて成田空港の特別な魅力を紹介しています。また、日本の文化やサービスの高さを強調し、視聴者が動画の内容についてさらに知りたくなるように促しています。

イギリスから来たケリーが成田空港で感じた驚きと魅力🇯🇵✈️。未来的デザインと日本のおもてなしが生んだ感動の物語。私たちの日常が、彼には特別な体験に!#日本旅行 #成田空港 #文化体験

 

武田二十四将 穴山信君

英語のことわざに、「Rats desert a sinking ship.」というのがあり、これを日本語に翻訳すると「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」になります。
ビジネスで例えるなら、倒産するのが目に見えている会社にしがみつかずに、さっさと転職先を見つけて転職する...といった意味になるでしょう。
戦国時代にも、「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」を実行していた武将たちは何人もいて、主君の側近として仕えていても、意外とクールに軍勢を離れていったりするものなのです。
武田信玄に仕え、その後、息子の勝頼に仕えた穴山信君も、沈みかけた船を見捨てることを選んだネズミの一匹でした。
江戸時代には、武田信玄の忠臣たちを浮世絵にして「武田二十四将図」なるものが、いくつも描かれていますが、その中に必ず出てくるほどの忠臣が、穴山信君だったのです。
今回は甲斐武田氏から見れば、裏切り者として知られる穴山信君の生涯を見ていきます。
もちろん、その選択が正しかったのか、間違っていたのか...そんなことは判断できませんが、戦国時代を生きる武将達の苦悩を語る上で、信君は外せない人物だといえるのです。

##甲斐武田氏の歩み
甲斐武田氏といえば、甲斐源氏の宗家として、駿河国の守護になり、その存在を世に知らしめていました。
源頼朝武田信義を警戒し、信義を失脚に追い込んだため、武田氏は存続の危機に直面したのです。
しかし、何とか滅びずに鎌倉時代室町時代を経て、勢力を拡大し、甲斐国守護にまでなっています。
戦国時代には、武田信玄の登場により、甲斐の武田氏の名は誰もが知るようになりますが、信玄亡き後は、急速に衰退していき、勝頼の時代に終焉を迎えるのです。
穴山氏は、代々、武田の家に養子として迎えられた者たちが家督を注いできたため、甲斐武田氏と密なる関係にありました。
しかし、武田氏一族でありながら、武田宗家とは一線を引かれていたのです。
先ほどもお話ししたように、甲斐国守護を任されていた武田宗家ですが、1416年の「上杉禅秀の乱」により一度、断絶しています。
これは、当時の主君である武田信満(のぶみつ)が上杉禅秀の味方をしたことで、鎌倉府より制裁を加えられたわけですが、そのため、甲斐国守護は穴山氏の穴山光晴(みつはる)が務めたのです。
これにより穴山氏が武田宗家を継承する可能性も出てきますが、穴山光晴は突然、病死してしまいます。
そのタイミングで亡命していた武田宗家の嫡男・信重(のぶしげ)が戻ってきて、家督を継いだために、穴山氏が武田宗家を継承することはなかったのです。
かなり、「きな臭い匂い」がしてくる話ですが、このような経緯もあり、戦国時代に入ってからの穴山信君の裏切り行為は、単純に武田勝頼と、穴山信君の不仲だけが原因ではないという説も唱えられていきます。

##穴山信忠の生い立ち
1541年穴山信友(のぶとも)の嫡男として、穴山信君は生まれます。
母は、武田信虎(のぶとら)の次女であり、武田信玄の姉にあたります。
父の信友と比べて、信君は武田氏に対して同族意識が強かったと言われていますが、叔父となるのが、あの武田信玄であれば納得できるような気がします。
その一方で、武田宗家の側は穴山氏をどのように見ていたかといえば、その境界線はしっかりと引かれていたのです。
つまり、信君と武田宗家の間には、信頼感という温度差がかなりあったように思えてなりません。
そのことは父の信友も気にしていたのではないでしょうか。
甲斐武田氏の用務などを日誌として記した「高白斎記(こうはくさいき)」によると、1553年頃には、信君は武田宗家の人質として、甲府に預けられています。
父・信友は河内地方の支配を進めており、これには武田氏の関与はなかったため、信友が独自に行っていたとみられているのです。
この河内領支配に関する事柄は、文書に残されていますが、それが書かれた同じ年に信友は出家し、家督を信君に譲っています。
これらの出来事が何を意味するのか、考えていくと、武田氏と穴山氏の間に戦国時代らしい、緊張感のある空気があったように思えてくるのです。

##調略、交渉のエキスパートとして活躍する
武田信玄に仕えた穴山信君が得意としていたのが、氏族間における外交術でした。
特に武田氏にとって厄介な存在である、隣国・今川氏との外交において、力を発揮していたのです。
桶狭間の戦い」で今川義元が戦死しますが、この出来事は今川氏にとっては、終わりの始まりとなるのです。
のちの徳川家康となる松平元康が、今川氏を見限り離反して、織田信長同盟を結んだり、今川氏真に対して家臣たちが起こした「遠州総劇」が勃発するなど、今川氏は滅亡への道を突き進みます。
信君は自らのネットワークをフル活用して、迅速に情報収集を行い、これらの様子を信玄に随時、報告をしています。
織田・徳川軍とぶつかり合った駿河国と近江の国への侵攻では、今川の家臣に対して調略を行ったり、徳川軍との同盟交渉を、自らが中心となり進めるなど、信玄の片腕としての役目を果たしました。
1569年に葛山氏元(かつらやまうじもと)と手を組み、北条氏と今川氏の背後を攻めるため、駿河大宮城の攻略に動き出し、一度は失敗するも、二回目の攻略で大宮城を落とすことに成功します。

##武田勝頼との不仲を決定づけた長篠の戦いと娘の縁談話
武田信玄の戦の中でも、有名な「川中島の戦い」や「三方ヶ原の戦い」でも信君は、武田軍の武将として戦い、いくつもの戦果を残しています。
武田氏の軍学書である「甲陽軍鑑」には、信君の名前は何度も出てくるので、それだけ重要な役割を担っていたことは間違いがありません。
そのような家臣がなぜ、武田氏を裏切ることになったのかは、不思議ではありますが、原因の一要素として挙げられるのは、やはり、信玄の息子・勝頼との関係だったのです。
1573年、信玄が病によりこの世を去った後、武田氏は衰退の一途を辿りますが、後を継いだ武田勝頼と意見が合わなかった信君は、足並みを揃えることができませんでした。
その2人の不仲に拍車をかけたのが「長篠の戦い」であったと言われています。
前回も苦戦を強いられた、信長・家康の連合軍が相手となる「長篠の戦い」に信君は反対の意を示しましたが、勝頼は戦に乗り気であり両者の意見はぶつかりました。
信君率いる穴山足の者たちは、早めに撤退し、被害も少なめに済みましたが、武田軍としては多くの重臣たちが命を落とす、苦い結果となったのです。
武田四天王」の一人、春日虎綱(とらつな)は、長篠の戦いの敗戦を知ると、勝頼に意見書を書きますが、その中には信君の切腹を求める内容も含まれていました。
さすがに勝頼は、この意見を退けたといいますが、春日虎綱に限らず、信君に対して批判的な態度を示す武田の重臣は、少なくなかったと予想されます。
また一説によると、信君は自分の嫡男と勝頼の娘を結婚させるつもりでしたが、勝頼は武田信豊の子に、娘を嫁がせようとしたため、信君と勝頼は、修復不可能な間柄になったという見方がされているのです。
これらの理由から、ついに信君は武田氏に愛想を尽かしてしまったというのが、一般的な見解となりますが、果たして、それが正しいのかどうかは明確な根拠はないと、言わざるを得ないでしょう。

##武田氏の裏切り者としての最後
1582年、織田信長の「甲州征伐」により、武田勝頼は追い詰められ自害したことで、武田宗家はついに滅亡することとなります。
甲州征伐」を抑えられないと考えていた信君は、信長の誘いにのり、勝頼を裏切り侵攻の手助けをする情報を漏らします。
この頃には信君は出家し、家督を譲っていましたが、穴山氏の実権を握っていることに変わりはありませんでした。
信君は、織田・徳川連合軍に協力する条件として、穴山氏が武田の名を継ぐことを認めるように求めていますので、ここに来て、甲斐武田氏の実権を握るチャンスが巡ってきたわけです。
その願いは叶ったものの、信君はすぐにこの世を去ることとなります。
家康と信君は信長に呼ばれて、安土城に出向きますが、その帰りにあの「本能寺の変」が起こるのです。
明智光秀の放った落ち武者狩りの追手は、家康と信君にも迫っていますので、まずは必死に逃亡しようとします。
家康は何とか逃げ切りますが、信君の方は、京都の宇治田原あたりで、里に住む人たちの一揆に巻き込まれて、41歳で命を落とすことになるのです。
一説によれば、この一揆は光秀が仕掛けたものと言われていたり、殺害ではなく信君が自害をしたとも言われていますので、謎が残る最後として語り継がれています。

##まとめ
武田勝頼を裏切ってまで得た甲斐武田氏の実権。
信君はそれを手に入れた後、すぐに他界しますが、後を継いだ嫡男の勝千代もまた、長くは生きられませんでした。
武田信春(のぶはる)を名乗り、武田氏当主になったものの、わずか5年で疱瘡により、病死してしまいます。
やっと武田氏の名を掲げられるようになった旧穴山氏ですが、勝千代の死によって、その血は途絶えることとなってしまったのです。
歌川芳艶(うたがわよしつや)の浮世絵「川中島大合戦組討尽」は、全部で12枚ありますが、その6枚目に信君が描かれています。
出家後の穴山梅雪の名で登場していますが、その形相は目が血走しり、口から血を流しているのです。
この妖怪のような恐ろしい姿は、信君が甲斐武田氏を裏切った極悪人であることを強調しているのかもしれません。
しかし、戦国時代の世で言えば、何が正しくて何が悪いことなのか、それは簡単には決められないことなのでしょう。

END
最後まで動画をご覧頂きありがとうございます

https://www.youtube.com/watch?v=8gi9-zKSg7A

 

秀吉の弟 影に輝く豊臣秀長の隠れた功績

豊臣秀長」という名前を耳にすることは少ないかもしれませんが、この人物は実は日本歴史の中で大変重要な役割を果たしていたんです。私たちがよく知る天下人、豊臣秀吉は、百姓の出身から天下を取った英雄として有名ですよね。しかし、秀吉の華々しいサクセスストーリーの影で、彼の背後には秀吉の弟である豊臣秀長がいたんです。
秀長は、初期豊臣家の経営を実質的に支える重要な役割を担っていました。大河ドラマにも登場することはあるものの、彼のキャラクターは特別強烈なものではないため、多くの人にはあまり知られていないのが実情です。今回の動画では、そんな地味ながらも非常に才能に溢れ、多くの障害にも立ち向かった豊臣秀長の魅力に迫ります。
豊臣秀長は、どうして秀吉の影に隠れがちなのでしょうか? 彼の才能はどのようにして豊臣家の成長に貢献したのでしょうか? また、彼が直面した障害とは何だったのでしょうか? これらの点を詳しく掘り下げながら、豊臣秀長という人物が持つ、隠れた魅力や功績に光を当てていきます。秀吉の光の中でひっそりと輝いていた豊臣秀長の物語を、一緒に深く探っていきましょう。

## 百姓から武士へ
豊臣秀長は天文9年1540年尾張国中村にて、織田家雑兵であった木下弥右衛門の未亡人だったナカと、織田家茶坊主だった竹阿弥との間に生まれました。
幼名は小竹といい、3つ違いの異父兄が日吉、後の豊臣秀吉です。
日吉は小竹がまだ幼いうちに家を出てしまい以後音信不通となっていました。
小竹は幼い頃から穏やかで人好きのする性格で、また大変聡明だったと伝わります。母と姉妹ともに農民として暮らしていた彼に転機が訪れたのは、永禄7年1564年頃のこと。
織田家の家臣だった浅野家の養女・おねと強引に結婚した、日吉こと木下藤吉郎秀吉が十数年ぶりに故郷に帰ってきたのです。
将来の家臣を持たない秀吉が久々に再会した弟、小竹に自分の家臣になってほしいと頼み込みました。
最初は気の進まなかった小竹も、生来人が良かったのでしょう、兄の頼みに応じてこれを承知し、木下小一郎と名を改めました。

##中国攻めで城持ちに
こうして秀吉の家臣になった小一郎でしたが、当初はもちろん右も左も分かりません。
戦においても戦闘に参加することは少なく、もっぱら留守居役を務めて藤吉郎を補佐していました。
しかしやがて天正元年1573年に秀吉が長浜城主になると、城代を務めるなど、重要な役職を任されるようになります。
この頃小一郎は「長秀」と名乗るようになり、翌天正2年には秀吉の名代として長島一向一揆の鎮圧に向かうなど武将としての頭角を現し始めました。
また天正3年1575年には羽柴小一郎長秀と名を改めています。
天正5年1577年、織田信長の命により、秀吉が中国攻めの総司令官となると、長秀は家臣となっていた藤堂高虎とともに同行し、秀吉は黒田孝高から譲渡された姫路城を拠点として、長秀とともに播磨・但馬を制圧していきました。
天空の城として有名な但馬竹田城も落城した後には、長秀が城主となっています。
以降も長秀は、別所長治の三木城、山名氏の有子山城、出石城、吉川氏の鳥取城を落とすにあたり、秀吉の右腕として活躍し、出石城落城後は城主として入城しています。
備中高松城の水攻めにも参陣していた長秀は、本能寺の変の一報を受けると秀吉に従って中国大返しを決行し、京に駆け戻りました。
明智討伐の山崎の戦いでは天王山に黒田孝高ともに布陣しています。
黒田孝高といえば、彼に宛てた秀吉の書状に「その方の儀は我ら弟小一郎め同然に心やすく存じ候」という一文があり、孝高はこれを読んで感激したという逸話があります。
長秀はたとえに引き合いに出されるほど、秀吉の信頼が厚かったこと、またその様子を孝高も目の当たりにしていたことが伺えますね。

##天下取りをサポート
清洲会議を経て天正11年(1583年)に柴田勝家を破ると、長秀は供出された姫路城を居城とし、播磨・但馬二国の統治を任されました。山名氏の開いた生野銀山も管理し、10万石の大名となりました。天正12年(1584年)には織田信雄徳川家康の連合軍との間で小牧・長久手の戦いが勃発。
秀吉・長秀兄弟の姉、ともの子、秀次が大将として家康の居城岡崎を攻めますが、情報が漏れて逆に奇襲を受けて大敗を喫しました。
秀吉は作戦を転換して、信雄の所領である伊勢国に戦力を集中させ、弱ったところに和議を持ちかけます。この時、交渉役を任されたのも長秀でした。兄秀吉の天下がほぼ確実となったこの頃、長秀は自身の名前である信長の「長」と秀吉の「秀」の上下を入れ替え、羽柴秀長と改名しています。

## 秀長と藤堂高虎
天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、秀次とともに主力部隊として行動し、秀吉は太田城に籠もる雑賀衆を殲滅すると、紀伊を秀長領として統治を任せました。
本願寺の影響力が強かったこの地を治めるにあたり、秀長は検地を実施します。
農民時代の経験を生かして正確な検地の方法を考案し、後の太閤検地へと繋げました。
また、秀長は居城として和歌山城を築城しましたが、この時普請奉行に任命したのが藤堂高虎でした。
藤堂高虎は主君を次々に変えて風見鶏などと呼ばれたりもしますが、部下の才能を見抜き評価した秀長にはよく仕え、忠義を尽くしました。
築城の名人といわれる高虎が土木技術を学んだのは、秀長家臣となった直後、安土城の築城に関わった時だったと言われています。秀吉、秀長兄弟も一説には土木系職能民の出身とも伝わるほど、土木技術に精通していたため、秀長は高虎の築城の才能を見抜き、彼の立身出世の足掛かりを作ったのでした。
高虎はこの恩義を忘れず、秀長の跡を継いだ秀保にも仕えています。

## 四国平定後、百万石に
同年6月の四国征伐では病に臥せってしまった秀吉の代わりに秀長が総大将として指揮を執ることに。
秀次や蜂須賀正勝黒田孝高らとともに讃岐・伊予・阿波を攻めました。
徹底抗戦の姿勢を見せる長宗我部元親でしたが、7月末には説得に応じてついに降伏長宗我部は四国統一を目前にしてその夢を破れ、土佐一国へと領土を縮小したのでした。この功績により秀長は新たに大和を与えられて百万石の大大名に昇進し、大和郡山城を拡大して入城しました。
以後、商業の発展や法整備などに力を入れ、寺社から領地を没収してその力を削ぐなど、アメとムチを使い分けて領内を統治しました。

##秀長病魔に倒れる

このように両国経営に辣腕を振るった秀長でしたが、長年にわたる激務のためか、この頃から体調を崩すことが多くなりました。
摂津有馬温泉に湯治に通いながらも、徳川家康の条約に尽力した秀長政の実質的な裁量のほとんどになっていた彼の働きぶりは、秀吉から「内々の儀は利休に、公儀のことは秀長に相談するように」と言われるほどでした。
天正15年1587年の九州攻めでは、日向から進出して島津義弘の夜襲を撃退、薩摩に撤退した島津軍は日向方面への対策だった秀長に講和を申し入れました。
こうして秀吉は日本の大半をほぼ平定し、まごうことなき天下人となったのです。
そんな兄の影に隠れ、病気を押して働き続けた秀長は、天正18年1590年正月頃に病状が悪化、面倒見の良かった叔父を案じた秀次は、大和の談山神社に病気平癒の祈願をしています。
天正19年1591年1月22日、秀長は居城である大和郡山城でついに息を引き取りました。
享年52歳、秀吉の天下取りを献身的に支え続けた人生でした。
場内には、兄の天下平定のための軍資金だったのでしょう、5万6000枚もの金子・部屋いっっぱいの銀子が残されていたといいます。
秀長の死後、豊臣家には不穏な空気が立ち込めました。
同年2月には利休切腹事件、8月には秀吉の嫡男鶴松が亡くなり、文禄元年1592年4月には文禄の役が始まり、秋には敗色が濃厚に。
文禄4年1595年4月には秀長の養子で秀次の弟・秀保が変死。
同年7月には秀次事件の発生、慶長2年1597年には慶長の役が始まり、兵が疲弊していく中、政権内の文治派と武断派の間で溝が深まり、三成の関ヶ原の戦いの布石になってしまいます。
そして慶長三年1598年8月18日、太閤秀吉が亡くなり、豊臣政権崩壊の足音がいよいよはっきりと聞こえてきたのです。

まとめ
豊臣秀長という人物は、日本の歴史において非常に興味深い存在です。
彼は、豊臣秀吉の弟であり、豊臣家における重要な役割を担っていました。
秀長は、強大な権力を持つ兄秀吉に意見を述べることができる、数少ない人物の一人でした。
彼は政治の手腕も戦闘指揮も一流で、控えめな性格ながらも物怖じせず、交渉においては温厚であったと言われています。
秀長には兄秀吉のようなカリスマ性はなかったかもしれませんが、彼には人々からの厚い信頼がありました。
特に、朝鮮出兵については秀長が反対を唱えていたことはよく知られています。また、彼が生きていれば、利休や秀次の粛清をとめることができたのではないかと考えられています。
「たられば」で語るのはナンセンスかもしれませんが、秀長がもし秀吉より長生きしていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
豊臣家の滅亡を避けることができたかもしれないのです。いずれにせよ、彼の死は日本の歴史における重要なターニングポイントだったと言えるでしょう。

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UAEの原子力発電所プロジェクト波乱含みな道のり

石油大国UAE原子力発電の新時代へ!ペルシャ湾美しい国土に根ざし、石油・ガス産業を経済の柱にしてきたUAEが、次世代エネルギー源への転換を目指します。

その中心にあるのが、野心的な原子力発電所プロジェクト。

しかし、技術提供国として選ばれた韓国との協力には、思わぬ波乱が…。

国際関係、技術革新、そして軍事力が絡み合うこのプロジェクトの舞台裏を、今回は深く掘り下げます。

エネルギーの未来を目指すUAEの挑戦に、あなたも目を見張ること間違いなし!

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