武田二十四将 穴山信君
英語のことわざに、「Rats desert a sinking ship.」というのがあり、これを日本語に翻訳すると「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」になります。
ビジネスで例えるなら、倒産するのが目に見えている会社にしがみつかずに、さっさと転職先を見つけて転職する...といった意味になるでしょう。
戦国時代にも、「ネズミは沈みかけた船を見捨てる」を実行していた武将たちは何人もいて、主君の側近として仕えていても、意外とクールに軍勢を離れていったりするものなのです。
武田信玄に仕え、その後、息子の勝頼に仕えた穴山信君も、沈みかけた船を見捨てることを選んだネズミの一匹でした。
江戸時代には、武田信玄の忠臣たちを浮世絵にして「武田二十四将図」なるものが、いくつも描かれていますが、その中に必ず出てくるほどの忠臣が、穴山信君だったのです。
今回は甲斐武田氏から見れば、裏切り者として知られる穴山信君の生涯を見ていきます。
もちろん、その選択が正しかったのか、間違っていたのか...そんなことは判断できませんが、戦国時代を生きる武将達の苦悩を語る上で、信君は外せない人物だといえるのです。
##甲斐武田氏の歩み
甲斐武田氏といえば、甲斐源氏の宗家として、駿河国の守護になり、その存在を世に知らしめていました。
源頼朝は武田信義を警戒し、信義を失脚に追い込んだため、武田氏は存続の危機に直面したのです。
しかし、何とか滅びずに鎌倉時代、室町時代を経て、勢力を拡大し、甲斐国守護にまでなっています。
戦国時代には、武田信玄の登場により、甲斐の武田氏の名は誰もが知るようになりますが、信玄亡き後は、急速に衰退していき、勝頼の時代に終焉を迎えるのです。
穴山氏は、代々、武田の家に養子として迎えられた者たちが家督を注いできたため、甲斐武田氏と密なる関係にありました。
しかし、武田氏一族でありながら、武田宗家とは一線を引かれていたのです。
先ほどもお話ししたように、甲斐国守護を任されていた武田宗家ですが、1416年の「上杉禅秀の乱」により一度、断絶しています。
これは、当時の主君である武田信満(のぶみつ)が上杉禅秀の味方をしたことで、鎌倉府より制裁を加えられたわけですが、そのため、甲斐国守護は穴山氏の穴山光晴(みつはる)が務めたのです。
これにより穴山氏が武田宗家を継承する可能性も出てきますが、穴山光晴は突然、病死してしまいます。
そのタイミングで亡命していた武田宗家の嫡男・信重(のぶしげ)が戻ってきて、家督を継いだために、穴山氏が武田宗家を継承することはなかったのです。
かなり、「きな臭い匂い」がしてくる話ですが、このような経緯もあり、戦国時代に入ってからの穴山信君の裏切り行為は、単純に武田勝頼と、穴山信君の不仲だけが原因ではないという説も唱えられていきます。
##穴山信忠の生い立ち
1541年穴山信友(のぶとも)の嫡男として、穴山信君は生まれます。
母は、武田信虎(のぶとら)の次女であり、武田信玄の姉にあたります。
父の信友と比べて、信君は武田氏に対して同族意識が強かったと言われていますが、叔父となるのが、あの武田信玄であれば納得できるような気がします。
その一方で、武田宗家の側は穴山氏をどのように見ていたかといえば、その境界線はしっかりと引かれていたのです。
つまり、信君と武田宗家の間には、信頼感という温度差がかなりあったように思えてなりません。
そのことは父の信友も気にしていたのではないでしょうか。
甲斐武田氏の用務などを日誌として記した「高白斎記(こうはくさいき)」によると、1553年頃には、信君は武田宗家の人質として、甲府に預けられています。
父・信友は河内地方の支配を進めており、これには武田氏の関与はなかったため、信友が独自に行っていたとみられているのです。
この河内領支配に関する事柄は、文書に残されていますが、それが書かれた同じ年に信友は出家し、家督を信君に譲っています。
これらの出来事が何を意味するのか、考えていくと、武田氏と穴山氏の間に戦国時代らしい、緊張感のある空気があったように思えてくるのです。
##調略、交渉のエキスパートとして活躍する
武田信玄に仕えた穴山信君が得意としていたのが、氏族間における外交術でした。
特に武田氏にとって厄介な存在である、隣国・今川氏との外交において、力を発揮していたのです。
「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死しますが、この出来事は今川氏にとっては、終わりの始まりとなるのです。
のちの徳川家康となる松平元康が、今川氏を見限り離反して、織田信長同盟を結んだり、今川氏真に対して家臣たちが起こした「遠州総劇」が勃発するなど、今川氏は滅亡への道を突き進みます。
信君は自らのネットワークをフル活用して、迅速に情報収集を行い、これらの様子を信玄に随時、報告をしています。
織田・徳川軍とぶつかり合った駿河国と近江の国への侵攻では、今川の家臣に対して調略を行ったり、徳川軍との同盟交渉を、自らが中心となり進めるなど、信玄の片腕としての役目を果たしました。
1569年に葛山氏元(かつらやまうじもと)と手を組み、北条氏と今川氏の背後を攻めるため、駿河大宮城の攻略に動き出し、一度は失敗するも、二回目の攻略で大宮城を落とすことに成功します。
##武田勝頼との不仲を決定づけた長篠の戦いと娘の縁談話
武田信玄の戦の中でも、有名な「川中島の戦い」や「三方ヶ原の戦い」でも信君は、武田軍の武将として戦い、いくつもの戦果を残しています。
武田氏の軍学書である「甲陽軍鑑」には、信君の名前は何度も出てくるので、それだけ重要な役割を担っていたことは間違いがありません。
そのような家臣がなぜ、武田氏を裏切ることになったのかは、不思議ではありますが、原因の一要素として挙げられるのは、やはり、信玄の息子・勝頼との関係だったのです。
1573年、信玄が病によりこの世を去った後、武田氏は衰退の一途を辿りますが、後を継いだ武田勝頼と意見が合わなかった信君は、足並みを揃えることができませんでした。
その2人の不仲に拍車をかけたのが「長篠の戦い」であったと言われています。
前回も苦戦を強いられた、信長・家康の連合軍が相手となる「長篠の戦い」に信君は反対の意を示しましたが、勝頼は戦に乗り気であり両者の意見はぶつかりました。
信君率いる穴山足の者たちは、早めに撤退し、被害も少なめに済みましたが、武田軍としては多くの重臣たちが命を落とす、苦い結果となったのです。
「武田四天王」の一人、春日虎綱(とらつな)は、長篠の戦いの敗戦を知ると、勝頼に意見書を書きますが、その中には信君の切腹を求める内容も含まれていました。
さすがに勝頼は、この意見を退けたといいますが、春日虎綱に限らず、信君に対して批判的な態度を示す武田の重臣は、少なくなかったと予想されます。
また一説によると、信君は自分の嫡男と勝頼の娘を結婚させるつもりでしたが、勝頼は武田信豊の子に、娘を嫁がせようとしたため、信君と勝頼は、修復不可能な間柄になったという見方がされているのです。
これらの理由から、ついに信君は武田氏に愛想を尽かしてしまったというのが、一般的な見解となりますが、果たして、それが正しいのかどうかは明確な根拠はないと、言わざるを得ないでしょう。
##武田氏の裏切り者としての最後
1582年、織田信長の「甲州征伐」により、武田勝頼は追い詰められ自害したことで、武田宗家はついに滅亡することとなります。
「甲州征伐」を抑えられないと考えていた信君は、信長の誘いにのり、勝頼を裏切り侵攻の手助けをする情報を漏らします。
この頃には信君は出家し、家督を譲っていましたが、穴山氏の実権を握っていることに変わりはありませんでした。
信君は、織田・徳川連合軍に協力する条件として、穴山氏が武田の名を継ぐことを認めるように求めていますので、ここに来て、甲斐武田氏の実権を握るチャンスが巡ってきたわけです。
その願いは叶ったものの、信君はすぐにこの世を去ることとなります。
家康と信君は信長に呼ばれて、安土城に出向きますが、その帰りにあの「本能寺の変」が起こるのです。
明智光秀の放った落ち武者狩りの追手は、家康と信君にも迫っていますので、まずは必死に逃亡しようとします。
家康は何とか逃げ切りますが、信君の方は、京都の宇治田原あたりで、里に住む人たちの一揆に巻き込まれて、41歳で命を落とすことになるのです。
一説によれば、この一揆は光秀が仕掛けたものと言われていたり、殺害ではなく信君が自害をしたとも言われていますので、謎が残る最後として語り継がれています。
##まとめ
武田勝頼を裏切ってまで得た甲斐武田氏の実権。
信君はそれを手に入れた後、すぐに他界しますが、後を継いだ嫡男の勝千代もまた、長くは生きられませんでした。
武田信春(のぶはる)を名乗り、武田氏当主になったものの、わずか5年で疱瘡により、病死してしまいます。
やっと武田氏の名を掲げられるようになった旧穴山氏ですが、勝千代の死によって、その血は途絶えることとなってしまったのです。
歌川芳艶(うたがわよしつや)の浮世絵「川中島大合戦組討尽」は、全部で12枚ありますが、その6枚目に信君が描かれています。
出家後の穴山梅雪の名で登場していますが、その形相は目が血走しり、口から血を流しているのです。
この妖怪のような恐ろしい姿は、信君が甲斐武田氏を裏切った極悪人であることを強調しているのかもしれません。
しかし、戦国時代の世で言えば、何が正しくて何が悪いことなのか、それは簡単には決められないことなのでしょう。
END
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秀吉の弟 影に輝く豊臣秀長の隠れた功績
「豊臣秀長」という名前を耳にすることは少ないかもしれませんが、この人物は実は日本歴史の中で大変重要な役割を果たしていたんです。私たちがよく知る天下人、豊臣秀吉は、百姓の出身から天下を取った英雄として有名ですよね。しかし、秀吉の華々しいサクセスストーリーの影で、彼の背後には秀吉の弟である豊臣秀長がいたんです。
秀長は、初期豊臣家の経営を実質的に支える重要な役割を担っていました。大河ドラマにも登場することはあるものの、彼のキャラクターは特別強烈なものではないため、多くの人にはあまり知られていないのが実情です。今回の動画では、そんな地味ながらも非常に才能に溢れ、多くの障害にも立ち向かった豊臣秀長の魅力に迫ります。
豊臣秀長は、どうして秀吉の影に隠れがちなのでしょうか? 彼の才能はどのようにして豊臣家の成長に貢献したのでしょうか? また、彼が直面した障害とは何だったのでしょうか? これらの点を詳しく掘り下げながら、豊臣秀長という人物が持つ、隠れた魅力や功績に光を当てていきます。秀吉の光の中でひっそりと輝いていた豊臣秀長の物語を、一緒に深く探っていきましょう。
## 百姓から武士へ
豊臣秀長は天文9年1540年尾張国中村にて、織田家雑兵であった木下弥右衛門の未亡人だったナカと、織田家の茶坊主だった竹阿弥との間に生まれました。
幼名は小竹といい、3つ違いの異父兄が日吉、後の豊臣秀吉です。
日吉は小竹がまだ幼いうちに家を出てしまい以後音信不通となっていました。
小竹は幼い頃から穏やかで人好きのする性格で、また大変聡明だったと伝わります。母と姉妹ともに農民として暮らしていた彼に転機が訪れたのは、永禄7年1564年頃のこと。
織田家の家臣だった浅野家の養女・おねと強引に結婚した、日吉こと木下藤吉郎秀吉が十数年ぶりに故郷に帰ってきたのです。
将来の家臣を持たない秀吉が久々に再会した弟、小竹に自分の家臣になってほしいと頼み込みました。
最初は気の進まなかった小竹も、生来人が良かったのでしょう、兄の頼みに応じてこれを承知し、木下小一郎と名を改めました。
##中国攻めで城持ちに
こうして秀吉の家臣になった小一郎でしたが、当初はもちろん右も左も分かりません。
戦においても戦闘に参加することは少なく、もっぱら留守居役を務めて藤吉郎を補佐していました。
しかしやがて天正元年1573年に秀吉が長浜城主になると、城代を務めるなど、重要な役職を任されるようになります。
この頃小一郎は「長秀」と名乗るようになり、翌天正2年には秀吉の名代として長島一向一揆の鎮圧に向かうなど武将としての頭角を現し始めました。
また天正3年1575年には羽柴小一郎長秀と名を改めています。
天正5年1577年、織田信長の命により、秀吉が中国攻めの総司令官となると、長秀は家臣となっていた藤堂高虎とともに同行し、秀吉は黒田孝高から譲渡された姫路城を拠点として、長秀とともに播磨・但馬を制圧していきました。
天空の城として有名な但馬竹田城も落城した後には、長秀が城主となっています。
以降も長秀は、別所長治の三木城、山名氏の有子山城、出石城、吉川氏の鳥取城を落とすにあたり、秀吉の右腕として活躍し、出石城落城後は城主として入城しています。
備中高松城の水攻めにも参陣していた長秀は、本能寺の変の一報を受けると秀吉に従って中国大返しを決行し、京に駆け戻りました。
明智討伐の山崎の戦いでは天王山に黒田孝高ともに布陣しています。
黒田孝高といえば、彼に宛てた秀吉の書状に「その方の儀は我ら弟小一郎め同然に心やすく存じ候」という一文があり、孝高はこれを読んで感激したという逸話があります。
長秀はたとえに引き合いに出されるほど、秀吉の信頼が厚かったこと、またその様子を孝高も目の当たりにしていたことが伺えますね。
##天下取りをサポート
清洲会議を経て天正11年(1583年)に柴田勝家を破ると、長秀は供出された姫路城を居城とし、播磨・但馬二国の統治を任されました。山名氏の開いた生野銀山も管理し、10万石の大名となりました。天正12年(1584年)には織田信雄・徳川家康の連合軍との間で小牧・長久手の戦いが勃発。
秀吉・長秀兄弟の姉、ともの子、秀次が大将として家康の居城岡崎を攻めますが、情報が漏れて逆に奇襲を受けて大敗を喫しました。
秀吉は作戦を転換して、信雄の所領である伊勢国に戦力を集中させ、弱ったところに和議を持ちかけます。この時、交渉役を任されたのも長秀でした。兄秀吉の天下がほぼ確実となったこの頃、長秀は自身の名前である信長の「長」と秀吉の「秀」の上下を入れ替え、羽柴秀長と改名しています。
## 秀長と藤堂高虎
翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、秀次とともに主力部隊として行動し、秀吉は太田城に籠もる雑賀衆を殲滅すると、紀伊を秀長領として統治を任せました。
本願寺の影響力が強かったこの地を治めるにあたり、秀長は検地を実施します。
農民時代の経験を生かして正確な検地の方法を考案し、後の太閤検地へと繋げました。
また、秀長は居城として和歌山城を築城しましたが、この時普請奉行に任命したのが藤堂高虎でした。
藤堂高虎は主君を次々に変えて風見鶏などと呼ばれたりもしますが、部下の才能を見抜き評価した秀長にはよく仕え、忠義を尽くしました。
築城の名人といわれる高虎が土木技術を学んだのは、秀長家臣となった直後、安土城の築城に関わった時だったと言われています。秀吉、秀長兄弟も一説には土木系職能民の出身とも伝わるほど、土木技術に精通していたため、秀長は高虎の築城の才能を見抜き、彼の立身出世の足掛かりを作ったのでした。
高虎はこの恩義を忘れず、秀長の跡を継いだ秀保にも仕えています。
## 四国平定後、百万石に
同年6月の四国征伐では病に臥せってしまった秀吉の代わりに秀長が総大将として指揮を執ることに。
秀次や蜂須賀正勝・黒田孝高らとともに讃岐・伊予・阿波を攻めました。
徹底抗戦の姿勢を見せる長宗我部元親でしたが、7月末には説得に応じてついに降伏長宗我部は四国統一を目前にしてその夢を破れ、土佐一国へと領土を縮小したのでした。この功績により秀長は新たに大和を与えられて百万石の大大名に昇進し、大和郡山城を拡大して入城しました。
以後、商業の発展や法整備などに力を入れ、寺社から領地を没収してその力を削ぐなど、アメとムチを使い分けて領内を統治しました。
##秀長病魔に倒れる
このように両国経営に辣腕を振るった秀長でしたが、長年にわたる激務のためか、この頃から体調を崩すことが多くなりました。
摂津有馬温泉に湯治に通いながらも、徳川家康の条約に尽力した秀長政の実質的な裁量のほとんどになっていた彼の働きぶりは、秀吉から「内々の儀は利休に、公儀のことは秀長に相談するように」と言われるほどでした。
天正15年1587年の九州攻めでは、日向から進出して島津義弘の夜襲を撃退、薩摩に撤退した島津軍は日向方面への対策だった秀長に講和を申し入れました。
こうして秀吉は日本の大半をほぼ平定し、まごうことなき天下人となったのです。
そんな兄の影に隠れ、病気を押して働き続けた秀長は、天正18年1590年正月頃に病状が悪化、面倒見の良かった叔父を案じた秀次は、大和の談山神社に病気平癒の祈願をしています。
天正19年1591年1月22日、秀長は居城である大和郡山城でついに息を引き取りました。
享年52歳、秀吉の天下取りを献身的に支え続けた人生でした。
場内には、兄の天下平定のための軍資金だったのでしょう、5万6000枚もの金子・部屋いっっぱいの銀子が残されていたといいます。
秀長の死後、豊臣家には不穏な空気が立ち込めました。
同年2月には利休切腹事件、8月には秀吉の嫡男鶴松が亡くなり、文禄元年1592年4月には文禄の役が始まり、秋には敗色が濃厚に。
文禄4年1595年4月には秀長の養子で秀次の弟・秀保が変死。
同年7月には秀次事件の発生、慶長2年1597年には慶長の役が始まり、兵が疲弊していく中、政権内の文治派と武断派の間で溝が深まり、三成の関ヶ原の戦いの布石になってしまいます。
そして慶長三年1598年8月18日、太閤秀吉が亡くなり、豊臣政権崩壊の足音がいよいよはっきりと聞こえてきたのです。
まとめ
豊臣秀長という人物は、日本の歴史において非常に興味深い存在です。
彼は、豊臣秀吉の弟であり、豊臣家における重要な役割を担っていました。
秀長は、強大な権力を持つ兄秀吉に意見を述べることができる、数少ない人物の一人でした。
彼は政治の手腕も戦闘指揮も一流で、控えめな性格ながらも物怖じせず、交渉においては温厚であったと言われています。
秀長には兄秀吉のようなカリスマ性はなかったかもしれませんが、彼には人々からの厚い信頼がありました。
特に、朝鮮出兵については秀長が反対を唱えていたことはよく知られています。また、彼が生きていれば、利休や秀次の粛清をとめることができたのではないかと考えられています。
「たられば」で語るのはナンセンスかもしれませんが、秀長がもし秀吉より長生きしていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
豊臣家の滅亡を避けることができたかもしれないのです。いずれにせよ、彼の死は日本の歴史における重要なターニングポイントだったと言えるでしょう。
英国葬儀参列、天皇陛下の深い敬意と友情
「英国葬儀参列、天皇陛下の深い敬意と友情」では、天皇陛下がエリザベス女王の国葬に参列し、日英王室の特別な絆を示した出来事を紹介します。
天皇陛下の謙虚な行動が世界中で賞賛され、日本とイギリスの深い信頼関係を象徴しています。
去年、日本の天皇陛下がイギリスを訪問し、エリザベス女王の国葬に参列したことが世界的な注目を集めました。
この出来事は、日本国内だけでなく、世界中で大きな話題となりました。
天皇陛下の参列は、日本の皇室とイギリス王室の特別な関係を象徴しており、世界中から賞賛を受けました。
特に、天皇陛下が他の要人と同じくバスで移動することを選んだ行動が、世界中で高く評価されました。
これは、イギリスへの信頼と尊敬の表れと見なされました。
エリザベス女王の葬儀は、世界中で生中継され、数十億人が視聴しました。
この葬儀には、世界各国から500人以上の要人が参列し、イギリス王室は特別な配慮をもってこれらの要人を迎えました。
しかし、警備上の制限から、専用車両の使用が制限され、多くの要人がバスでの移動を余儀なくされました。
この中で、天皇陛下は特別な対応を辞退し、他の要人と同様にバスで移動することを選びました。
これに対し、アメリカのバイデン大統領は専用車を選んだことが、海外メディアで大きく取り上げられました。
天皇陛下のこの行動は、日本の皇室の姿勢として世界に評価され、賞賛されました。
また、天皇陛下はイギリス王室との長い関係を大切にし、特別な対応を選びました。
これは、日本とイギリスの間の深い絆と信頼関係を示しています。
天皇陛下の参列は、日本の皇室とイギリス王室の間に発展し続ける素晴らしい関係を象徴しています。
もし織田信長が長生きしていたら?未来の歴史を探る
もし織田信長が長生きしていたら、日本の歴史はどのように変わっていたのでしょうか?
この問いを探る記事では、織田信長が明智光秀の襲撃を避け、天下統一を果たし、さらに国際的な貿易と経済大国への道を探る未来の歴史を描いています。
もし信長が長生きしていたら、日本はどのような歴史をたどるのでしょうか。
天下統一を果たして安定政権を築くことができるのか、それとも大きな波乱があってピンチを迎えるのか。
記事では、信長が生き延びるためには本能寺の変が起こらないことが必須であると指摘しています。
また、信長が天下統一を果たした後の経済政策についても触れており、銀の利用によって日本を経済大国へと導こうとした信長の野望についても詳細に説明されています。
未来、織田信長が長生きしていたら、彼の野望や政策、そして日本の歴史の流れはどのように変わっていたのでしょうか。
この記事は、そんな未来の歴史を探る興味深い内容となっています。
大谷翔平「野球しようぜ!」日本の全小学校に6万個のグラブ寄贈!
世界から驚愕の声本当に野球の神様だ海外の反応
2023年はWBCから始まりレギュラーシーズン投打での大活躍。
しかし8月下旬に右肘靭帯損傷で今期投手終了9月頭に右脇バラ2で今期打者としても終了とまさに激動の1年となりました。
大谷翔平選手は今後何年にもって2流を続けることを希望し、9月19日に手術に踏み切りバッターとしては来シーズン開幕からピッチャーとしては再来年2025年シーズンの復帰を目指すと公表されています。
大谷翔平選手なら必ずまた素晴らしい輝きを見せてくれることは間違いないでしょう。
今シーズンも投打で大活躍を見せた大谷翔平選手。
3年連続でチーム最優秀選手MVPを獲得し日本人選手初アジア出身の選手としてもメジャーリーグ市場初となるアリーグホームラのタイトルを獲得しました。
ワールドシリーズも終了し、これから受賞ラッシュが期待される大谷翔平選手ですが、今日9日時点でMVPハンクアーロン賞シルバースラッガー賞で最終候補にノミネートされており、11月17日やリーグMVP発表2年ぶり2受賞さらに史上初となる2度目の満票受賞なるか。
そんな野球界のスーパースター大谷翔平選手ですが「野球しようぜ」とメッセージを添えて、日本の全小学校に6万個のグラブ気することを11月9日Instagramで発表しすごい騒ぎになりました。
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大谷翔平選手は9日午後自身のInstagramでクラブの写真と「野球しようぜ」というメッセージの画像を投稿し、概要欄にはこの度日本国内約2万校の全小学校に各3つのジュニア用グローブ約6万個を偽造いたします。
野球を通じて元気に楽しく日々を過ごしてもらえたら嬉しいです。
このグローブを使っていた子供たちと将来一緒に野球ができることを楽しみにしています。
またご協力いただきました関係者の皆様に感謝申し上げますと記載。
このことはすぐにニュースで広がり、例えばライブドアニュースのTwitter投稿はたった数時間で1000万表示に迫る勢いになっています。
なお、このニューバランスの大谷翔平モデルのグローブは、まだ発売すらされていないモデルで、とてつもなく貴重なものを日本の全小学校にまず寄付するという一部ネット上の意見では数10億円はかかっているのではという声も上がっています。
それ以上の宣伝効果は得られるかと思いますが、ニューバランスも素晴らしいことをしてくれたなと思います。
ちなみに文部科学省の統計によると現在小学校の数は国立と私立合わせて2336校、大谷の言う日本国内約2万校というのは大げさでも何でもなく日本にある全ての小学校が対象ということです。
アメリカでは著名人やスポーツ選手がこういった社会活動をすることで模範となり社会をよくしようという考え方が一般的です。MVPを受賞した際はエンゼルスとも関係のある非営利団体へ賞金を寄付しているし、オールスターなどで着用したユニフォームがすごい金額で落札されたりしています。
確か1000万超えたりしてたと思います。
あれらも全てチャリティオークションエンゼルスに入団した後も、小児日に病院訪問をして交流するなどこういった話題にこかかないけど大谷がこういったことをしているのは今に始まったことではない。
自身が大きく成長した母校である花巻東高校には度々の偽造を行っていることは有名です。こういった活動が本人にとっても力になっているんだろうね。
また、この投稿には英語も記載されていたことで、海外からも賛の声が多数寄せられることになったのです。
大谷マニアとして有名なベンバーランダーは信じられないと添えてこのことを紹介。
もちろんそれ以外にも多くのメディア著名人がこの試みを紹介そうするとこれを見たユーザーからはこれだから翔平は最高なんだ。
彼はあらゆる意味でMVPにふさわしい。
彼はいつも野球の将来を考えてくれている。
世代を超えて衝撃を与え続けることができる数少ない人間だ。
恥をしんで俺も1つ欲しい。
画像に書かれている言葉「野球をしようぜ」なんてシンプルで美しい言葉。
日本の小学校にグローブを彼は正気ではないしかしだからこそ彼はユニコーンと呼ばれるんだ。
彼ほど模範という言葉がふさわしい人間はいないよ。この男を好きにならないわけがない。
なんて格好良いんだ。
子供たちが良い思い出を残せますように。改めて大谷にあなたは最高だ。
ちゃんとした治療ができていいスタッフがいるもっといいチームでプレイできますように。
彼が史上最高の選手だと言われる遊だ翔平。
あなたの後に続く未来の選手たちに少しでも多くのことが伝わることを祈るよ。
とんでもなくクール、突然日本の小学生になりたくなったよ。
またニューヨークに来てね。これ以上ないプレゼントだ。きっと野球に興味を持ってくれる子供が出てくるだろう。
なぜ俺は日本の小学生じゃないのか。君は素晴らしい。
マスマスフィリーズのユニフォームに身を包んだ姿を見るのが待ちきれなくなった。
翔平、次はトロントで同じことをやってくれ。
あなたがそうしたようにカブスもあなたに大きな愛を示すだろう。
いや次はレンジャーズだ。
あなたがいることだけがエンゼルスの良いところなんだ!頼むから残ってくれ。
ドジャースへようこそ。
プレイも人間性も超一流なんなんだ、この男は。欠点を誰か教えてくれよ。
これで日本はもっと野球が強くなる、おい!アメリカの皆、俺たちもベースボールを盛り上げようぜ!
今回の全ての小学校にグローブを偽造するという、ある意味で現実味のないが大谷翔平選手だったらそれを実現してしまう。
びっくりすると同時に大谷翔平選手ならそれぐらいやるだろうなと思わせてしまう不思議な説得力がありますよね。
この造で野球人口もきっと増えるだろうし大谷が言うようにこれがきっかけで一緒にプレイする選手も出るかもしれないしいね
マルティンス選手、日本で感動
オバフェミ・マルティンス選手のキャリアは、彼の得点記録やクラブでの活躍だけでは語り尽くせないものがあります。
インテル、ニューカッスル・ユナイテッド、そしてナイジェリア代表としての輝かしい足跡を残し、世界中のサッカーファンから愛されてきた彼ですが、中国での経験は彼にとって厳しいものでした。
スター選手としての期待を背負いながらも、黒人差別の壁に直面し、チームメートやサポーターからの侮辱、審判からの不公平な扱いに苦しんでいました。
しかし、そんな彼が日本で感じたのは、全く異なる体験でした。
彼が日本で遭遇した人々の温かさと親切さが込められています。
迷った際には、言葉の壁を超えて助けを提供する日本人の姿に、彼は深い感動を覚えたのです。
レストランでの注文、電車での席の譲り合い、これらの日常的な親切が、彼にとっては新鮮で心温まるものでした。
このエピソードは、マルティンス選手だけでなく、多くの外国人選手や観光客が日本で経験することです。
日本の社会が提供する平等と受け入れ体制は、彼らにとって非常に魅力的であり、日本での生活を選ぶ大きな理由となっています。
日本人の国民性と文化が、世界に誇れるものであることを、マルティンス選手の体験が改めて教えてくれます。